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【年齢のうた】藤圭子●暗かった人生を唄う壮絶曲「圭子の夢は夜ひらく」

新宿の花園神社の境内にある石碑です。今回のタイトルにあるように、藤圭子のヒット曲「圭子の夢は夜ひらく」の歌詞が刻まれています。
そうです。この【年齢のうた】で、初めて取材に行ってきました! といっても、ただ現地を訪れて、写真を撮ってきただけですけど。
 
おかげで新宿の街をひさびさに歩きました。やや道に迷いつつ(泣)。
四季の路は、新宿JAM(数年前に閉店して西永福に移転)や日清パワーステーション(とっくの昔に閉店)の行き帰りによく歩いたものです。

昔、この四季の路のあたりに、芝居小屋があった記憶が

もちろん、花園神社に行ったのもひさしぶり。すぐ近くをバスでよく通ってはいたんですけどね。 

花園神社の鳥居。
本殿のほうではほかの方が撮影していたので、自重

そのあとは都庁前のあたりまで歩いて、ハイチのドライカレーを食べてきました。ええ、またカレーですよ。ハイチは杉並に住んでた頃、吉祥寺のお店に何回か行きました。新宿でも昔行ったことがあったけど、今の場所に移ってからは初めて。
ここのドライカレーは渋みと苦みがナイスブレンドの食べごたえで、素晴らしい。大人の味、なのかな。カミさんも一緒に行きたかったというので、また行かねば。

食後にコーヒーが付くサラダセットで、1100円でした

えーと、近頃はTHE 1975やHomecomingsの最高のライヴを観たり、ようやく稼働しはじめた新しいPCの環境設定や引っ越しなどをしていました。その合間に、新宿で素敵な時間を過ごすことができたというわけです。

 


では本題に入ります。  

「圭子の夢は夜ひらく」に横たわる、青春時代の悲しみ


藤圭子は、僕が子供の頃、最も早くその存在を認識した歌謡曲歌手のひとりだった。昭和40年代……あの時代だと、ほかには水前寺清子、いしだあゆみ、佐良直美とかの曲を覚えている。僕の家はラジオもほとんど流れてなかったし、歌はテレビで耳にする程度だったしで、音楽の情報に敏感なほうではなかった。なにせ自分は幼いし、育ったのは島根の田舎だし。
そんな中でも藤圭子の歌はよく覚えている。その彼女の代表曲のひとつが、「圭子の夢は夜ひらく」だ。
この歌が記憶に強く残っているのは、年齢についてのくだりがあったからである。15、16、17、と。自分の人生は暗かった、と。

これは僕の人生で、おそらく最も早く耳にした「年齢を唄った歌」だと思う。あと小さい頃に聴いた曲では、「赤とんぼ」もあるか。そういえばこの歌で言及されている年齢も15歳だ。

ただし自分は、藤圭子がどんな歌手で、どんな人となりなのかに触れることはないままだった。この歌の背景なども、とくに知らないままだった。
 
ずいぶん経って、藤圭子のことを思い出させてくれたのは、そう、娘の宇多田ヒカルの登場である。1998年12月、「Automatic」での鮮烈なデビューだ。

僕は彼女をこのデビュー時にインタビューしているのだが、母親があの藤圭子であることは話に出さなかった。その事実を知ったのは取材の前だったのか後だったのかも、よく覚えていない。取材の場で、屈託のない笑顔を見せながら元気に話す宇多田自身のことは覚えているのだが。
もっとも、仮にその事実を前もって聞いていたとしても、僕自身が藤圭子という歌手をちゃんと記憶していなかったので、インタビューの席で話すことはなかったと思う。藤圭子の歌をしっかりとリアルタイムで聴いて、そのすごさを強く認識しているのは、おそらく現在の60代以上の年代がほとんどだろう。50代の僕の世代では、若干遅いのだと思う。
それにこのインタビューをした1990年代後半頃はDragon Ashの降谷建志やトライセラトップスの和田唱のように著名人の子供が音楽をやってデビューすることが多く、ただ、当人たちがそれを売りにしようとしないケースばかりだったので、こちらはそのことに触れないのが暗黙の了解になっているような空気があった。それもあって僕は、藤圭子について話すことは、ことさら意識しなかったのだと思う。
 
さて、宇多田ヒカルがデビュー直後から大ブレイクし、一躍ビッグネームになったのは、大人世代であれば周知の通り。彼女はそれからしばらくしたらライヴをするようになり、僕も何度か見せてもらったものだ。
そのあとの宇多田はアメリカ・デビューに挑んだり、イギリスに転居したり。母親になった今でも優れたアーティストとして作品を出し、コンサート活動を続けている。

 その一方で、母親の藤圭子は2013年に亡くなっている。この年の8月、彼女自らこの世を去ったという悲しいニュースが報道された。

2016年に宇多田ヒカルがリリースしたあまりに繊細なバラード「花束を君に」は、その亡き母へ向けた歌であることが知られている。

 その後も自分は、藤圭子という歌手について深い知識があるわけでもなかったのだが……年齢についての歌を思った時に、「圭子の夢は夜ひらく」の歌詞がどうしても引っかかってきた。なにしろ、自分が最初に知った、年齢を唄った曲であるから。
 
そして調べると、この歌のある程度の部分は、事実であるということがわかってきた。15歳から17歳まで、暗かった人生を送った少女、藤圭子。いや、厳密には、それ以前も、彼女は明るくない日々を過ごしていたはずだ。
 
藤圭子は1951年に、北海道の浪曲師の両親のもとに生まれている。この夫婦は旅芸人の生活をしながら生計を立てていたというが、経済的には厳しく、藤は子供の頃から極貧に近い状況だったらしい。そんな中で親と旅をし、歌を唄うようになり、そこに可能性を見出そうとした。彼女は中学を卒業すると、両親とともに上京し、歌手として生きる道を探ったという。
 
やがて1969年の秋、18歳で歌手デビューした藤は、最初のシングル「新宿の女」、それに続く「女のブルース」をいきなりヒットさせた。いずれも女性の悲しみややるせなさを唄った曲である。それもド迫力の歌声で。

そして件の「圭子の夢は夜ひらく」は、翌1970年4月のリリース。3枚目のシングルだが、もともとはその前の3月に発売した1stアルバム『新宿の女』のB面1曲目に収録された曲だった。つまり「圭子の夢は夜ひらく」は、このアルバムののちに大きな反響があり、そこからのシングルカットという形を経て、大ヒットとなったのである。

ところで曲名の頭に「圭子の~」と付いているように、これは数年前に「夢は夜ひらく」で一世を風靡した歌だった。元は東京鑑別所で唄われていた俗曲を、当時の歌謡界のスタッフが楽曲化し、レコードとして発売したものとされている。
その一番最初のテイクは、1966年、園まりによる「夢は夜ひらく」。この仕掛け人のひとりが、のちに藤圭子のデビューに関わることになる作詞家の石坂まさをだった。
話題をふりまいた同曲は以後、競演作となり、藤田功(曽根幸明)と愛真知子、緑川アコ、梅宮辰夫、バーブ佐竹といった人たちが唄っている。その際、歌詞とメロディは唄い手によって少しずつ変更されていった。
 
後年には三上寛、八代亜紀、坂本冬美、玉置浩二といったシンガーもカバーしている。とにかく、数多くの歌手に唄われてきているのだ。

さて、1970年の藤圭子の歌唱版は、最初の園まりから3年半も経過した頃に発売されたのだが、これがヒットチャートを駆け上がり、首位を奪取してしまう。
 
しかもこの藤圭子版は、「圭子の~」と付けただけに、歌詞に本人のアイディアも取り入れられている。先ほど名前を出した石坂まさを氏は、藤をデビュー前から売り込んできたマネージャー(兼プロデューサー的な存在)でもあって、そもそもかつての自分が仕掛けたこの歌を彼女に唄わせることには並々ならぬ思い入れがあったようだ。なお石坂氏は、この前のシングル曲「新宿の女」や「女のブルース」も手がけている。
 
そして「圭子の夢は夜ひらく」の詞が、藤圭子本人の境遇と重ね合わせたものであることは、とても重要である。ここには、歌手と職業作詞家の先生という関係ではなく、むしろシンガーソングライターに近いようなリアル感が埋め込まれているからだ(もっとも、一部にはこの歌の描写はフィクションではないかという見方もあるようだが)。
 
それにしても……人生暗かった、とドスのきいた声で唄いきる藤圭子は、当時18歳。作家の五木寛之が彼女の歌を「演歌ではなく、怨歌だ」と言った話は有名だが、たしかにそれだけの情念やドロドロしたものが歌にあふれ返っている。

歌詞の当該箇所。
直後の展開には希望的な表現が


昭和、高度経済成長期の高揚感。その網目からこぼれ落ちた感情の暗部をすくい上げた歌

 
石坂氏は、著書でこう記している。

石坂まさを『きずな 藤圭子と私』(2013年)より。
本書は『きずな』(1999年)の改題・新装版


十五、十六、十七と。たしかに私の人生は暗かった。それは順子(青木注/藤圭子の本名)も同じだった。


そう、石坂氏もまた晴れきらない人生を送った人だった。彼は著書で、自分は商売人だった父親が8人ほど囲っていた愛人の4番目の女性の子だったと記している。その人生、とくに少年時代は、かなり苛烈な生活だったようだ。
 
この石坂氏は、1941年5月の生まれ。僕の両親と近い時代である。
そして藤圭子は1951年7月の生まれだから、ちょうど10歳年下だ。10年という年齢の差はあれど、藤圭子も石坂氏も、戦後の日本で育ち、国が経済成長期を迎えた時期に青春時代を送っていたことになる。
 
それは貧しくとも、みんなで肩を寄せ合って、前を向いていた時代。アメリカを始めとした海外の文化や風俗が日本にどんどん輸入されて、技術も文化も右肩上がりで発展していった頃。そんな昭和の中期から後期に差しかかる時代は、明るいことばかりだったわけではないが、みんなが元気で、ポジティヴ(←当時こんな言葉は使われてないが)であろうとした。民衆には、とくに若者には、明るいヒット曲が支持されていた(もちろんそればかりではなかったと思うが)。

  そんな中で歌に関わる仕事をしてきた石坂氏は、自分の人生の後ろ暗さを捨てきることなく、それを言葉という形で歌に反映させた。そしてそれを受けた藤圭子が名歌唱を残したのである。
藤圭子は、そして彼女が残したヒット曲の数々は、みんなが懸命に前向きになろうとした高度経済成長期に、その高揚感の網目からこぼれ落ちた感情の暗部をすくい上げた歌たちである……と捉えることができると思う。
そう、ネガティヴな感情を吐き出す歌。そんな音楽が存在するというだけで、救われる心だってあるのだから。
  
藤圭子の「新宿の女」というヒット曲、そして作者である石坂氏の育った街である新宿。その一角の花園神社にある「圭子の夢は夜ひらく」の石碑……歌碑は、1999年に建立されたものだという。ここにはそうした悲しみの思いが刻まれているわけだ。



新宿・花園神社の境内にある歌碑

今から53年も前にヒットした「圭子の夢は夜ひらく」。
この歌には、悲しみにさいなまれながら10代後半の青春期を必死に過ごした者たちの、強い念が込められている。

ハイチで、食後にいただいたアイスコーヒー。
ミルクとシロップの間の瓶は、なんとブランデーでした


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