見出し画像

民主主義とは何か? 権威と洗脳 権力と自由 個の意識と公共判断

現代の国学
「やまとこころ」と近代理念の一致について 

序章 科学技術と人間本性 

           
民主主義とは何か? 権威と洗脳 権力と自由 個の意識と公共判断
 
権威というものは、日本では往々にして「お上」と呼ばれることが多い。
人間の世界で最たる権威は宗教権威であるだろうが、宗教以外にも様々な権威が巷には存在している。
「お上」とされる権威には、下とされる人間に同調を強制し、権威に対する忖度と迎合を引き起こす能力がある。
だが、斯様な上と下の関係は能力的・実体的なものではなくて、立場的か若しくは観念的なものだろう。
故に、権威とは実体性の有無に関わらず、それを偉大であると思い込む信仰のことであると言っても過言ではない。

権威の強制力は人間の肉体よりも人間の精神に作用するものであって、権威は人間の内面を支配することで人間を屈服させている。
もっと言ってしまえば、権威は人間に同調圧力を掛けて洗脳する性質を持っているわけであって、これ自体が好ましからざる毒であるということだ。

とはいえ、本当の問題は権威が存在していることではなくて、人間がそれを疑わず、権威に従順な心性を持つことだろう。
意味も機能も考えずにただ権威を妄信して崇め、情報を疑って実体を確かめることを放棄することは科学的な態度ではない。

こうした権威とは対照的に、権力と呼ばれるものは人間の実体的な有形力である。
かのマックス・ウェーバーは、国家権力のことを暴力装置と呼んでいたが、暴力も権力も実体的な力であって、これらは人間の生存に絶対に必要不可欠なものだ。

そして、民主主義とは、国家権力という暴力装置を社会契約に基づいて制御する思想である。
それ故に、民主主義社会における政府権力の行使は、為政者の個人利益ではなくて国家の公益が目的とされなければならない。
個人利益にしか興味がない者が政治を執れば、どんな富国も強国も、あっという間に破滅するだけだ。

大部分の権力は社会を統制するものであることを考えれば、権力は不自由を作り出すものであると言える。
しかし、ありとあらゆる意思決定は可能性を絞り込むことであり、全ての自由なる決定とは本質的には統制の裏面でしかない。
つまり、自由とは己の意思による制御を示す言葉であって、出鱈目の放任や自然的無秩序を示すものではないのだ。
こうした自由と統制の表裏一体性について、サルトルは「人間は自由という牢獄に繋がれている」と述べた。

自由とは、何を成すべきかを判断して、それを実行する能動的な意思決定であり、これこそが「個の意識」と呼べるものである。
思考停止した相対主義や個人の恣意性といった野放図は、自由からは程遠いものでしかない。
人間的な自由とは、単なる無秩序無法とは完全に異なるものであるのだ。

民主主義とは人間個々人が国家における意思決定を考える自由であるのだから、権力行使への無関心はエーリッヒ・フロムが唱えた「自由からの逃走」そのものだろう。
自由に公共性と実体性が伴わないならば、それは単なる不自由でしかないのだ。

こうした「個の意識」とは対極的な同化欲求が「群れ意識」であって、これは自己による判断の放棄であり、集団に流されるだけの「我の消滅」であると言っていい。
「群れ意識」は「個の意識」による自由なる判断を破壊して、群れの構成員を騙すためだけの観念的な詐術だけを発生させるものだ。
問題解決と実体を憎み、責任放棄と迎合を愛する思考が「群れ意識」だと言っても、何ら問題はないだろう。

自由とは、実体的な有形力と主体的な意思が「機能的な繋がり」を創ることで成立する。
それ故に、自らの自由を持つ人間が連帯して協働することによって、より巨大で強力な自由が生まれる。

人間個々人の意思決定能力と実体有形力は、壮大な目的を達するためには時として小さすぎることもあるかも知れない。
だが、個々人の能力を集合させて実体有形力を巨大化させれば、より大きな自由が誕生し、それによって大きな目的を実現させることが出来る。
つまりは、社会共助によって公共権力を創ることは、人間の自由を増やすことであるということだ。

一方で、人間の分断を起こす野放図は無力そのものであって、これを自由と呼ぶことは出来るはずもない。
アメリカ人が述べるような個人主義は、広くものごとを考えることの否定であって、自己の快楽以外に興味を持たないミーイズムであり、それは他者への無関心でしかないが故に、個人主義というより、単なる「個人利益主義」に過ぎないのだ。

個人利益主義とは公平性の対極そのものであるが、これは人と繋がることを放棄する思想であって、他者を守ることを考えないどころか最初から他者を全く信用しない思想である。
これは、どこまでも人間不信的な信仰に過ぎず、斯様な内向性と臆病さは社会的分断を作り出す。
功利主義と呼ばれているものは社会共益を重んじる思想であって、これは個人利益主義のエゴイズムとは正反対の思想である。

互いが異なる存在であることを認め合って協力する社交性を否定して、似たような者だけで集まってセクトを作り、その中に引きこもる習慣は、日本よりもむしろアメリカに強く存在している。
こうした風習は公共社会への参加を放棄させ、閉鎖的な群れに所属することを助長するものでしかない。
分断され、誰もが助け合わなくなり、自らの金と地位と宗教的な偽善と見栄だけを考える個人利益主義は、まさに人間の無力と不自由そのものだ。
こうして群れて集い騒ぐだけのことは、個人の相互理解から最も遠いことでしかない。

この世界は物理的な制約もあることから、完全に人間の自由になるものは多くはない。
だが、そうであっても実体と他者と積極的に関わって、この世界を自らの能動的な意思によって動かしていくことを、サルトルは「アンガージュマン」と呼んでいた。
寧ろ、物理的な制約によって起こる問題を、人間の自由から生まれる創意工夫によって解消していくことに、人間の活動の意味が存在している。
こうした世界の物理的な制約は、人間を縛ること自体を目的とした権威による束縛とは完全に異なったものであることは言うまでもない。

人間を拘束するだけの過去の不自由な宗教は、権威への迎合こそを道徳として称揚してきた。
しかし、リベラリズムに基づいた現代社会であっても、思考停止による権威への同化は相変わらず横行していて、これは自由というよりも単なる野放図でしかない。
権威に媚びて下を弾圧するだけの馬鹿の一つ覚えでも世渡りは出来るし、愚か者達はそれこそが善意であると考えているが、そもそも、善悪とは権威に従順か否かという程度の意味であった。

この現代の野放図社会は、妄想に勤しむ権威的なボケ老人とそれに迎合するワガママな幼児の社会であって、結局は中世社会と何も変わるところがないだろう。
中世も現代も、人間個々人の意思と公共性を否定して、権威が個人利益のために社会と人間を支配する時代であることは完全に一致している。

アメリカにおいては、野放図無法なリベラリズムのイデオロギーであっても、戒律に煩い白人至上主義的なプロテスタントであっても、どちらも実体を無視して幼児性を尊ぶだけの反知性の宗教に過ぎない。
彼らには規範意識は存在せず、左であっても右であっても、その本質的な愚かさには大差がなく、一九七〇年代にヒッピーと宗教原理主義者が同時に巨大勢力となった。
どちらであっても公法に基づいた文明社会の否定を信仰しているが、左の集団は新興勢力であって、アメリカの主流はプロテスタント集団の方だと言えよう。

アメリカでは、政治的左右を問わずとして、実体に基づいた思考も公平な判断基軸も持たず、権威の観念に縋ることを妄信し、自己顕示欲によって他者との比較優位に執着することがアメリカの根本的な精神である。
こうした精神は現代においては「トランピズム」と呼ばれることもあるが、トランプ前大統領がアメリカの精神性を崩壊させた原因ではなくて、トランプ前大統領はアメリカの歴史的伝統から生まれた結果に過ぎない。

トランピズムという己のこと以外を考えてはならないという信仰は、理不尽に他者を攻撃することによって自己を権威化しようとする精神であって、これは公共性への反抗であると言っていいものだ。
だが、実体を何も理解しようとせずに自らの恣意性を押し付け、それ以外の全てを排除する浅ましい心性は、実はアメリカの伝統的な精神であった。
それ故に、この無条件に自己を肯定する精神、己に対する個人崇拝のことを、筆者は「アメリカンマインド」と呼ぶことにした。
「アメリカンマインド」は、「やまとこころ」とは対極の「漢意」であることは説明不要だろう。

アメリカンマインドとは、自分さえよければそれでよいという思考であって、全ての理念を否定する欲望であり、これは社会的責務を否定する奴隷的精神でしかない。
競争社会に住むアメリカ人は、己の序列のために争うことにしか関心が無く、結果のために戦うことはまるで得意としていないのだ。

アメリカ的な競争社会を破壊して、協働社会を造らない限りは、人心が荒むだけには留まらず、全ての人類社会が崩壊するだけの帰結を迎えるだろう。
短期利益と競争価値を信仰する彼等は、持続的な成長と創造価値を否定することに取り憑かれている。
人間から公共心を剥ぎ取れば、保身に走るか、蓄財に励むか、カルト宗教に傾倒するだけだろうが、アメリカンマインドとは人々を繋ぐ文明精神を否定する野蛮の極致であると言っても何ら問題がなく、「一将功成りて万骨枯る」そのものだ。

アメリカは宗教的な選民思想によって建国された歴史的な背景を持つが故に、このような否定のための否定を辞めることが出来ない。
彼等には人間の共同体に参加している自覚がなく、それ故に公共的義務を意識することが不可能なのだ。
斯様な自省なき自己愛は単なる自己不信でしかないが、これでは実体構造の「機能的な繋がり」を認知することが出来るはずもなく、観念的な自己正当化を繰り返すだけに陥る。
つまり、アメリカンマインドとは、自己愛性人格障害であると言っても何ら問題はない。

実際に、個人利益主義のトランプ前大統領は、他者を否定することでしか自己主張が出来ず、陰謀論を妄信し、病的なまでの自己顕示欲に取り憑かれ、見栄を張るための嘘をつき続けていた。
客観的かつ公平な視点から言って、トランプ前大統領は法螺を吹くことと競争で勝つことにしか殆ど興味を持っていないと言える。
だが、トランプ前大統領は典型的なアメリカ人の一例であって、アメリカンマインドとはこのようなものなのだ。

彼とその支持者達は、カルト宗教的なセクトを形成して、自らの主張のための証拠を集めることよりも国会議事堂を襲撃する暴動を選ぶことになった。
彼等は、世界の民主主義を守るどころか、アメリカの民主主義を破壊することしか出来なかったのだ。
これは社会不信に基づいた無法の攻撃でしかないが、人気取りが出来るのならば彼等は無差別殺人でも平気で行うだろうし、事実としてアメリカの歴史とはそのようなものでしかなかった。
結果を追求する向上心を持たずに、ただ自己満足の楽しさや快不快の気分で動く動物的な存在が、政治に参入するのであれば社会の全てが破壊される。

個人利益主義者の彼等には、個人利益のための取引の関係でしか他者との関係を構築出来ない。
臆病で冷血な彼らは、自分は正しいとしか考えられず、実体性も公平性も発揮できず己の利害関係しか理解し得ない。
彼等は他人との間に「機能的な繋がり」を創ることが出来ず、「群れ意識」によって思考停止して権威に迎合すること以外が出来ないのだ。
アメリカでは、ソフィストの人気取りと、政治的対話を軽視した民主制による多数決が信仰されているだけなのだ。

こうした「個の意識」の否定によって成立する「群れ意識」の集団は、それは人間の協働ではないが故に自由を否定するものであって、本質的には人間への抑圧を行っているに過ぎない。
だからこそ、アメリカ人の自己顕示欲は他者への弾圧という形に転化して顕現し、彼等は敵集団への反対でしか纏まることが出来ないのだ。
このアメリカの醜さから目を反らす日本人は、アメリカの批判をしてはいけないと洗脳され、戦後の呪いに取り憑かれているだけだろう。

ソクラテスは、人間が欲望を抑え込み、理知や気概を成長させることによって、国家の公平性が保たれると述べた。理知や気概とは、人間的意思や人間的感情と呼ぶべきものであろうが、そうした人間性を否定して、動物的快楽欲求を全開にすることをアメリカ人は自由と呼んでいるに過ぎない。社会の成立に必要な実体性・公平性・功利性を否定したが故に、動物的快楽欲求でしか人を纏め上げることが出来ないのがアメリカの宿痾である。それ故に、彼等彼女等はカルト宗教によって集団を造り上げることを繰り返すことしか出来ず、Qanonやらプロテスタント原理主義派が跳梁跋扈しているわけだ。

アメリカ人には公共性が存在しないが故に、自分がどう生きるかの一身上の問題しか議論されることが無く、全てのものごとが個人利益のミーイズムに還元される。
彼等には、社会全体の政治など他人事であって、個々人は自らの妄想観念を具現化することにしかまるで興味を持っていない。
私領域における個人の自由のみを追求する彼等は、公領域の社会的自由を殺すことをどこまでも信仰し、それによって公共の福祉は破綻することになる。

アメリカの精神科医達は、トランプ前大統領のことを自己愛性人格障害であると訴えていた。
だが、アメリカの価値観が世界中に広まれば、世界中の人間がトランプ前大統領のように他人の発言を全てにおいて無視するような、独善と自己愛の塊に堕落することだろう。
実体に基づいた議論が出来ず、自己と権威以外を全否定し、悪口と影口と自画自賛しか出来ない生物だけになれば、人間の世界は確実に滅ぶ。

人間の活動の本質は速力であって、必要なこととやりたいことをやっていく速さこそが結果の創造に必要な原動力である。
だが、形式主義や観念論はこれを潰すためのものであって、後ろ髪を引いて人間を捉えて不要なことに執着に停滞させ、その結果として社会を衰退させる性質を持っている。

もう一つの人間の活動の根幹は、自らの外に意識を伸ばす探求心である。
だが、自分が肯定されることを求めるだけの赤ん坊の心性では、ただ動くことが出来ても、活動することは出来やしない。
赤ん坊には自分の心性以外のものをまるで認知できず、実体に基づいた判断を持つことが不可能である。
観念妄想しか認知出来ずに一切の自省が伴わないアメリカンマインドは、赤ん坊の心性と同様であると言えるだろう。
子どもは自分の周りの実体構造は認知出来るわけであって、赤ん坊に比べれば優れた認知能力を有している。
そして、大人とは自分の周りの実体構造を超えて社会全体を見通すことが出来る者、社会を向上させるためにどうするべきかを理解してそれを行える人間である。
つまり、大人とは知恵と勇気と公平性を発揮出来る者であって、その能力によって政治権力の運用について考えることが出来る存在だと言えよう。

私の記事が面白いと思ったならば、私の食事を豪華にしていただけませんか? 明日からの記事はもっと面白くなります!