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何事をもせねば、但だ其処にゐるといふだけでぷつかりと浮かぶ事もできたでせうが、さふ気づく為には矢張り、暗い辛い水を掻いて、掻いて、掻きながら、水面へと訳無く上つてゆく水泡を妬むあの時が、肝心だつたのでせうね。知らぬ事を知らぬままに彼是せんとするのですから、致し方有りませんね。
バックミラーを見るのが下手な私は、どうにもまっすぐ停められず、白線の枠に収まろうと何度も何度もハンドルを切るのでした。終いには車止めに乗り上げ、他の方の邪魔をし、不器用な私は、あの時も、あの時も、ずいぶんご迷惑ばかりおかけしまして。己を振り返ることもできないというのは、罪ですね。
ほんの一昨日まで動いて、息をして、頷き返してくれたこの人と、何が違うというのか。湯灌を済まし、つやつやとした顔を見ながら、私は世の不思議に打たれていた。身体を運んだずっしりとした感触はしかし、祖父の重さとして手に残っていた。この重みを支えるだけの何かが、彼の中には、もうないのだ。
「空白」って言葉が正しいのなら、僕らが月と呼んでるあれは、ピースのはまっていない、空白なんだ。
夜の公園は静まりかえり、どこか遠くで、救急車のサイレンが響いていた。その生々しい音だけが、私を正常な生の世界と繋げていた。
あれを塗り潰すのに、一番良い色はなんだろう、と彼が呟く。
彼女は両手で包み込むようにカップを持つ。舐める程度に珈琲を啜り、そして、ふうと小さな息を漏らす。それは幸福を体現した動作だった。
この黒く苦いものが、柔和で暖かな彼女のどこを構成するパーツになっているのか、不思議だった。まだ僕は、この人のことを何も知らないのだと、強く思った。
シンデレラも舞踏会から去る頃だというのに、コンビニの棚の間を子どもが走り回る。この無機質な空間が、絢爛豪華な城に見えているのだろうか。彼の魔法は、まだ数年は解けないだろう。
魔法にかけるのは自分自身で、だから、例え靴を落としても、王子様は追っては来ないのだと、いつから、そんな。
道路を往来する車からは、なんとなく意志のようなものを感じるのだけれど。でも、それはきっと思い過ごしで。
本当は、あのカチカチと光るウインカーの灯りが、ブレーキランプの赤だけが、彼らの意志に違いない。
そしておそらく、幅の狭い車線の中の、僅かな偏りこそが、私たちの趣向なのだ。
アパートの一部屋に明かりが灯っていて、洗いざらしたパーカーが擦りガラス越しに影を作る。
ぼやけた輪郭の向こうにある、人の気配のようなものから、私は必死に、その人自身を見ようと目を凝らしている。
そうして、まるで分かったような気で、その人のことを語るのだ。いや、騙るのだ。
テレビはメニュー画面のまま、劇中曲を流し続けていた。眠っていたようだ。
取り出し口から、薄くてきらきら光る円盤が現れ、あんな波乱万丈な人生がこれっぽっちの円に納まるなら、一体、自分はと考える。
透けるような歪に破れた紙が、棚を埋めている様を想像した。貸すのも借りるのも忍ばれた。
空にぽっかりと穴が空いていた。
思わず呼びかける。
おおい、おおい、ここにいるぞ。
おおい、おおい、そこから見えるか。
瓶の底は冷たいぞ。
そっちはどうだ。暖かいか。
誰も覗きやしない。
あんなに輝く場所なのに。
自分のことで精一杯か。
なんだ、あっちもさほど変わんないな。
向かいのテーブルに残された食器は、当たり前のように、人がいた痕跡をその場に色濃く残していた。
食べるという生の感触、その残り香、陰影。
そういうものとだけ、一緒にいられたら、どんなに楽だろう。
誰にも触れたくないのか。
もしくは、触れられたくないのか。
時計は確実に時を刻む。
冷たい空気が吸いたくて外に出る。
月もないのに、星もないのに、雲の覆う夜空は明るかった。
自室の窓よりもずっと。
そして目が慣れてくると、もう障害は何もない。
何処へだって行けるのだ。何処へだって、行く気になれば。
梅が綺麗だ。桜はまだか。
何処かの桜は、もう咲いているか。
誰からも、振り向かれずに生きたいのよ。中途半端は嫌なの。崩れたところでさして意味もないくせに、不安定だからって積み木の塔に怯えてる。腹がたつわ。私にも、相手にも。自暴自棄なんかじゃない、これは自衛よ。
虚しくって死ぬなんて、馬鹿なこと言うんじゃないよ。もっと自信を持ちな。あんたは楽しくったってちゃあんと死ぬよ。