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画家 ゆめの
2021年7月25日 14:07
給食後の 自由時間。何をするかは 二択である。1、体育館で 活発組のみんなと鬼ごっこ2、教室で 文化系の友人と自由帳に絵を描く当然 2の方が好きだったけれど、「体育館に行こう!」と誘われて毎回 断るのは申し訳ないので定期的に1を選択していた。小学生にして "人付き合い" というものを意識していた というわけだ。しかし 放課後に"人付き合い" は無い。もちろん
2021年7月26日 06:18
地元の中学校ではなく、札幌の私立中学の 美術科に入学した。中学受験をしたのだ。通常の試験とは別に、デッサンの試験を受けたわけだ。見たものをそのまま書くというデッサンは実は大の苦手である。しかし、なかなか入るのは難しい学校だったのにわたしが入れたのはもしかして、本当はわたし、デッサンが上手いのか?!すごいじゃん、わたし!!!!!と、当時は思ったが本
2021年7月26日 06:21
高校は 美術科から 普通科に移った。口では簡単に言えるけれど、それはもう... 大変だった... 。エスカレーター式の学校なので 高校受験は無く、そのままでいれば 高校も美術科にいて 将来は絵に関係する仕事に就くはずだった。普通科に進学するということは将来の道筋が 白紙になることを意味していた。それでも 美術科から退くことを望んだのは絵を描くことを好きでいたかった
2021年7月26日 06:23
将来の夢が無かった。いや 正確には高校生のときに 1つあった。普通科に移ってからの高校生活の間で、わたしはネイルにハマっていた。高校を卒業したら、ネイルの専門学校に行く。将来は ネイリストになる!と決めていた。しかし その夢は 呆気なく散る。わたしが バセドウ病になったからだ。バセドウ病とは 甲状腺の病気で症状は色々あるが わたしは手が震える症状が強かった。
2021年7月26日 06:25
短大 2年生就職活動の時期に入り、服が好きだったわたしはアパレル系に絞って 就職活動をすることにした。スーツを購入し、写真も撮りに行き、履歴書も書き始めていた。 そんなとき、医務室から呼び出しがかかった。嫌な予感がする。「実はこの間の健康診断の結果なんだけど...... 再発してるの」バセドウ病が 再発していた。話はこうだ。就職活動をしたところで 履歴書に目
2022年1月4日 17:26
地獄だった。毎日体調が悪い。おまけに 短大生という肩書が無くなり、働いていないということは ニートということだ。そうか.. わたしはニートなのか...と実感すると 絶望的な気持ちだった。いま思えば 精神的なものが 病気を余計に悪くしていたと思う。食事が喉を通らなくなり 点滴をしにいく。救急車で3回ほど運ばれたが 死ぬわけではない。命あることを有り難いと思う余裕もない。い
2022年1月9日 16:32
職場の人間関係が最悪だった。理不尽に若い女の子をいじめることで有名なおばちゃんがいて、わたしと近しい年齢で ほぼ同時期に働き始めた子たちが次々と おばちゃんの餌食になり辞めていった。わたしが最後の一人になった。もちろん 徹底してやられた。そりゃターゲットはわたししか残っていないのだから、当たり前だよね。" 絶対に辞めない "" お前なんかに負けないから "そう決めていた
2022年1月11日 18:23
例の 無口な社員さんが絵を買ってくれたとき、雑貨屋さんで絵が売れたとき、なんとも 不思議な幸福感があった。わたしの作品を、お金を出してまで欲しいと思ってもらえたということ。そして わたしの作品がどこかで飾られているということ。その事実が たまらなく嬉しく、これがわたしのやるべきことだと実感する。しかし あれよあれよと雑貨屋さんで画家デビューすることとなったため、その
2022年4月21日 13:20
フリマサイトで 徐々に絵が売れるようになった。ちなみに当時の絵の値段は2〜3千円くらいだ。1枚の絵から発生する利益は お小遣い程度である。仕事として成り立っているとは到底言えない。それでも わたしは嬉しかった。“自分の作品を求めてくれる人がいる” という事実に 画家として どん底だったわたしの心は救われたのだ。ちなみに今現在は ハンドメイドサイトのミンネで販売している
2022年4月21日 13:21
まず絵の値段としては適正と言えるような価格で販売ができている。もう お小遣い稼ぎ程度の利益しか出ないという悩みは 無くなったわけだ。では 順風満帆か?残念ながら 違う。まだアーティスト特有の大きな悩みが 横たわっている。それは“安定性の無さ”である。今月絵が売れたところで来月も売れる保証はない。実際に 毎月1枚は絵が売れるようになり、軌道に乗り