My ALL TIME BEST ② 「くまのプーさん 完全保存版」(1977)
無自覚に愛おしさを抱く存在
もう何年も前の話なんだけど、小学校の同級生とあった時にディズニーの話になった。
「プーさんが好きなんだ」という話をしたら、
相手から「へぇ〜今も変わらず、好きなんだね」
と言われたがすごく心に残っている。
なぜなら私自身、けっこうな大人になってから好きになったと自覚していたからだ。
他人から言われて初めて気付いたんだけど、実は小さい時から好きだったのかもしれない。
うちの両親はあまりディズニーに興味がないので、実家にはディズニー関連のアイテムがほとんどない。なのに、だ。
「くまのプーさん」はA.A.ミルンが息子が持っていたテディーベアから着想した児童小説で、その小説の中に入っていて展開していくというメタ構想になっている。ディズニーランドにあるハニーハントが絵本の作りになっているのも、その構想をトレースしているからだ。
そのため、他の作品よりもかなり自由度が高く、小説の文字の上をプーさんが歩いたり、時にはスペルにぶら下がったりするのがとても可愛らしい。
(ちなみに、原作の著作権が2021年に切れたことにより、「プー あくまのくまさん」のようなホラー作品も爆誕している)
作品にもよるけれど、基本的にはナンセンスなドタバタコメディがベースになっている。
終始、愛くるしい勘違いを踏みまくり、思いもよらない方向に物語が展開していくのは、まるでアンジャッシュのコントのよう。
そんな、登場キャラクター全員でボケ倒す100エーカーの森の住人。
ハチミツを食うことばっかり考えて、思考回路がどうかしてるプーさん
年長でツッコミ役の空気感を出しながら、意外にオチを持ってくオウル
みんなと違う空気で自由に動き回り、うっすらKY感を匂わすティガー
ぼやきとネガティブなオーラを漂わせ、振り回されまくるイーヨー
自分を利口だと思ってるゆえ、空回りしてることに気づかないラビット
プーさんの横で、上手にプーさんをミスリードしていくピグレット
唯一の常識動物だけどツッコまないカンガとガキのルー
森の住人のボケ倒しに乗っかりまくる天才児、クリストファー・ロビン
ボケ倒しのプロフェッショナル軍団...
100エーカーの森=ドリフターズ説を唱えてる時期もあった。
いかりや長介の「ダメだこりゃ!」で大団円を迎えるドリフのコントのように、100エーカーの森の中でずっとボケを繰り返し続けていく、彼らは成長を止めた存在に映るだろう。
でも、だからこそ私たちは愛しさや癒しを抱くのではないだろうか?
成長をしない純粋無垢な住人たちに、成長し
二度と戻ることのない自分たちのかつての姿に愛おしさを感じるのと同じように。
昨日が未来のかけらなら 明日だって思い出だろう
私の歴史的価値観やら何やらは関係ないのだけど、人は変化を望む生き物だと思う。
仕事においても、去年と同じでいいとか言って思考を止めてしまう人は淘汰されていくし、いつの時代もブラッシュアップ・アップデートををしていかないと生き残れないのが世の中だ。
例えば誰かを好きになったときもそう。
相手に好かれたくて、もっと知って欲しくて、もっともっと触れて欲しくて、もっともっともっと見合う存在になりたくて人は変わろうとする、努力なしの「ありのままの〜♪」って私は傲慢だと思うし。
それに、往々にしてそういう変化を受け入れて形を変えていく過程は楽しいものだと、祭りの後に気づくものだよ。
だけど、おかしいなもんだ。
本来であれば変わる前の自分で相手との関係が築けたはずなのに、なぜか変化を求めてしまうんだろう。そう考えると、変わらないままの存在でいるのは、実は本当はとても難しいことなんじゃないかと感じるようになってきた。
人は変わっていくものだから変わらないことが怖いし、変わらないことに飽きるし、変わらないことに焦ったりもする。
ただ変わってほしいと望みながら、どこか変わらないでと願う。
そんな矛盾した世界を生きる私たちにとって、きっと本当に変わらないままでいてほしいものは、もう
変えることのできない
ところに存在しているものだけなのかもしれないな、と思った。
想い出もその類いだろう。
想い出だけは、いくら手を加えたところで変えられない。
願わくば、、姿形を変えずにそのままでいてほしい。
だから、その想い出を濁らせるようなことは起きてほしくないんだろう。
So Goodbye Happiness
つまり私たちの想い出という構造自体を、「くまのプーさん」の世界観がそのまま体現しているのではないだろうか。
①◆100エーカーの森の住人=幼児期
無邪気で純粋な、何もしないことを望まれている存在
②◆クリストファー・ロビン=少年・少女期
何かをしなくてはならない年齢に成長しかけている存在
③◆プーさんを愛する私やあなた
何かをしなくては生きていけない存在
私たちがプーさんに愛おしさを抱くのは、①の幼児期を思い出すのはもちろん、②の少年・少女期に①の幼児期から離れなくてはならない感覚を思い出すからなのではないだろうか?
4歳のお兄ちゃんが1歳の弟の面倒を見ようとする姿を見て、懐かしさと愛おしさを感じるそれに近い。
(あるいは、「はじめてのおつかい」で兄弟・姉妹の回を見ている感覚)
だから、この作品でクリストファー・ロビンが
「僕、もうなんにもしないってことできないんだ。だから、ねえプー。
僕がいなくなってもここにきて、なんにもしないってことをしてくれる?」
と、望む姿に胸を打つんだと思う。
何もしないなんて無理に決まっている。
生きるためにしなきゃいけないタスクがあるのは分かっている。
でも、それでも・・・
矛盾していてもいいじゃないか。
この先も、何もしないことをしていた頃やその時の家族を思い出していたい。
自分にとっての大切な想い出は、想い出のままあり続けてほしい。
そう願う気持ちはいつかはボヤけ、薄れ、やがて離れてしまうかもしれないけれど、それでも私はクリストファー・ロビンと同じようにプーを想っているんだと。
そんな風に考えると、急に胸が締め付けられる。
ヒッキーの「Goodbye Happiness」は、プーさんと私たちの関係性のような融和性を持っていると感じています、彼女もくまが大好きだしね。
僕のために、何もしないということ、ずっとしててね
なぜディズニーの中でも、特に「くまのプーさん」に引き寄せられるのか?胸を打つのか?
実は答えを持っている。
変化が大好きな私が言うのは、めちゃくちゃ矛盾するけど、、、
私もきっと、どこかで誰かのためのプーさんでいたい。
「プーは本当におバカさんだね」とじゃれ合える、クリストファー・ロビンみたいな人を大切にしたい。
私もきっと、プーにとってのはちみつみたいに映画の話を永遠としたり、くだらないことでずっとボケまくれるような、そんな100エーカーの森の仲間のようなやつらと一緒にいたい。
「あいつはちっとも成長しないな、大人にならないな」と後ろ指をさされたってかまわない。こちとら、誰かのために「何もしないをしているんだ」と宣言してやりたい。
個人的な悩みだが、いつからか年相応に見られなくなった。
初対面の人には20代後半、いって30代に前半に見られることが多い。
今の私にとっては、仕事面含めあまりメリットがない。
ただ「肌が綺麗」「肌男!」と揶揄されている私も、年齢的には十分おっさんの仲間入りしているし、もういくつ寝るとジジィになってしまう。
それでも、私の中にある童心はいつまでも枯れることなく、共に生き続けて行くと思う。
変わらなきゃいけないこともたくさんあるし、大人にならなきゃいけないことはまだまだたくさんある。
だけど、それでも、私は私の中にあるプーさんと手を繋いでいたい。
それこそ、私は私の童心に言ってあげたい。
「僕のために、何もしないということ、ずっとしててね」と。
そうすれば、きっと私も誰かのために何もしないということを、永遠に忘れずにずっとしてあげられると信じていたいから。
私はこれからも、私という絵本の物語の中で遊び続けようと思う。
物語はいつか終わりを迎えるけどね。
「さよなら?やだよ、1ページに戻って初めからやりなおそう」
それじゃ今度は、あなたの絵本の中に遊びに行くから、待っててね。
「くまのプーさん 完全保存版」(1977)
(原題:The Many Adventures of Winnie the Pooh)
監督:ウォルフガング・ライザーマン
:ジョン・ラウンズベリー
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