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愛すれば愛してくれる―思い出そう、愛の存在を:ドラマ『THIS IS US 36歳、これから』シーズン1

かの中国の思想家・孔子は、『論語』の中で「吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」と述べているが、この内の一節「四十にして惑わず」とはどの様な意味か、皆さんご存知だろうか。

故事ことわざ辞典を引いてみると、「四十歳になって、道理も明らかになり自分の生き方に迷いがなくなったということ」とある。

そうだよね、40歳にもなれば迷いなんて無くなるよね、と、文字通りに受け取って来たし、実際辞書にだってそう書いてある。

しかし、能楽師・安田登は、著作『身体感覚で『論語』を読みなおす。-古代中国の文字から』に於いて、この通説には誤りがあるのではないかとの時論を展開する。

そもそも、「四十にして惑わず」の「惑」という漢字が、孔子の生きた春秋時代(孔子は紀元前551年生まれ。紀元前って!)には存在しなかったという。

「惑」の部首でもある「心」という概念が、当時では新生概念で、それ以前の人々には心(自由意思)がなく「命(めい)=運命/宿命」の世界に従って生きていたんだとか。

で、じゃあ、孔子は「惑」でなくてどの文字を使っていたのか?という疑問に至るわけだけれど、「惑」から「心」を取った「或」を使っていたのでは、とされるそうで。

「或」は、或る日或るところに、といった風に「区切られた区域」を表す漢字。そこから導き出される孔子のメッセージについて、安田氏は以下の様に述べている。

四十、五十くらいになると、どうも人は「自分はこんな人間だ」と限定しがちになる。「自分ができるのはこのくらいだ」とか「自分はこんな性格だから仕方ない」とか「自分の人生はこんなもんだ」とか、狭い枠で囲って限定しがちになります。
「不惑」が「不或」、つまり「区切らず」だとすると、これは、「そんな風に自分を限定しちゃあいけない。もっと自分の可能性を広げなきゃいけない」という意味になります。そうなると「四十は惑わない年齢だ」というのとは全然違う意味になるのです。

あらあら。これが有力な説だとすると、教科書の出版会社も辞書編纂者も書き換えに奔走しなければならなくなりますね。

でもきっと、この解釈は正しい気がする。
七十歳の時にやっと自分の思うままに行動をしても人の道を踏み外すことがなくなりました。だし。

正しい訳に関しては有識者の方の手に委ねるとして、安田氏の解釈に則れば、40歳になってこそ出来ることがじゃんじゃか増えて自由になれる!人生ここからだぜ!仕事でもプライベートでも新しいことを始めたりするのだから、迷っても惑ってもおっけー!と、孔子は謳っているわけで。

そう思えば、なんだか勇気が湧いて来る。何でも出来そうな気がする。

2,500年も前に実在した人間に励まされてしまうのだから、孔子、恐るべし。

私が通うマッサージサロンのお姉様も仰っていました。「40くらいの時にも、私の人生これで良いのかなあって思う時が来るよ」と。

そうなんです。40歳、ムムッ!まだまだ惑っていい~んです。くう~~!!
by.川平慈英

そんな、不惑で魅惑の40歳を前にした人間達が織り成す悲喜こもごもを描いたのが、2016年からNBCで放送が開始されたアメリカのテレビドラマ『THIS IS US 36歳、これから』だ。

三十六にして惑わず

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36歳の三つ子の兄妹、ケヴィン・ケイト・ランダルと、彼らの両親、ジャックとレベッカを軸に、前に進もうともがき続ける人間達を映し出す本作。

36歳。

人生百年時代と言われる現代に於いて考えてみれば、人生の折り返し地点にも至っていないわけで、そう考えると若いと言えなくもないかもしれないが、でもやっぱり、決してもう若くはない。

哀しいことに、30を超えれば、おじさん・おばさんのカテゴリーに自動的に分類されてしまうし(私個人としては、年齢区分より「人による」区分けであって欲しい)、36なら立派なアラフォーである。

私自身は今年29歳を迎えるアラサーだが、「25歳になったら舌を出すな」だとか「20代後半からミニスカートはイタい」だとか言われつつも、「じゃあ、いつやるの?今でしょ」理論を武器に、未だに舌を出しミニスカートを履いては、懸命に年齢に抗って生きようとしている。

と同時に、自身の年齢を受け容れて年相応に生きることこそが、最も若くいられるのではなかろうか、との想いに駆られてもいる。

そんな、複雑で難しい年齢事情に悶々としているが、「今いくつですか?」と訊かれた時に「いくつに見える?」と質問で返すのは20代後半以上だ、とテレビだか雑誌だかで目にしたので、この回答だけは決してするまいと心に決め、この手の質問には喰い気味で正直に年齢を答える様にしている(喰い気味という点がむしろ鬼気迫って怖いかもしれん)。

そんなエイジハラスメントと闘いつつ生きるアラサーの私だが、近頃、コロナの感染者数を提示する際などに「40代までの若い世代の感染者数が多く」と言われていることに疑問を抱いてしまう。

ん?40代までの若い世代??

ここに来て、40代まで若いですと・・・?

あんたら、25超えようもんなら価値が無いとか普段言ってますよね、と言いたくなるのをぐっと堪え、「ああやっぱり本当は49歳まで若者だったのか!」と、ここはポジティブに捉えることにしよう。

アラサーの醜いぼやきが長くなってしまいました。

えーっと、36歳という年齢観についてでしたよね。

世間の見方について言及すると、上記のぼやきの通り思うところは色々あるのですが、自分の才能の限界や人生の到達点を知らされる時期かもしれないなあ、と。

『THIS IS US』の長男・ケヴィンは売れっ子テレビスターだけれど、内容のないくだらないTVショー俳優に留まっているし、肥満のケイトはいつまでも痩せる気配がない。妻と2人の子どもに囲まれ仕事も順調なランダルだが、未だに自身のルーツを紐解けず、アイデンティティを確立し切れていない。

でも、四十にして惑わずの本来の意味通り、「36歳、これから」の副題の通り、彼らはまだまだチャレンジを諦めない。ここから、それぞれが新たなスタートを切る。

それぞれが自身の抱えている問題に体当たりし、時に倒され、時に立ち止まりつつも、共に手を取り合いながら、その度に立ち上がって、何度でも歩き始める。

気力も体力もまだ十分にあり、可能性だって大いにあり、それなりの経済力と社会的地位から成る自由を手にしたアラフォーこそ、本当はなんだって出来るのかもしれない。
そして、それは、これからの人生の方向を大きく左右する転換期でもあり、最後に足搔ける年齢なのかもしれない。

「28歳にもなって何やってんの」と、つい先日言われたばかりの私だが、36歳だってこんなに迷って悩んでふらふらしているのだから、28歳の私が余りにも幼稚で不完全なのも当然という気がする。
と言うと、自慰的言い訳に過ぎないが、「私もきっと大丈夫」と思わせてくれるという点では、力強く温かいエールを貰えるドラマであると言えるだろう。

七転び八起きしながら進むBig3の逞しさ

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それにしても、Big3(三つ子の愛称)には、余りにも多くの困難が降り注ぎ過ぎる。

まさに「一難去って、また一難 ぶっちゃけありえない!!」という、ふたりはプリキュアもびっくりのトラブル続き。

もうね、途中から分かって来るんですよ。ああ、これは失敗フラグだなって。冷静に考えたらAの選択肢を選ぶべきだと心得ているはずなのに、絶対にBを選んじゃうんだろうな、って。

ケヴィンはいっつも一言多くて相手を苛立たせるし、ケイトは自信のなさから人を遠ざけてしまうし、ランダルは完璧を求めては自分を追い込んでしまう。

誰もが懸命に今を生きているはずなのに、「一体どうしてこうなってしまったんだろう」という納得のいかなさともどかしさを抱えながら、3人もまた生きてしまっている。

36歳にもなれば、自分が一番、自らの欠点やら認知の傾向やらを知っているはずで、どう対策すれば良いのか、どう自分を変えるべきなのかだって、これまで幾度となく考えて来たはずで。

でも、私達は決定的に恐れていることがある。
それが「向き合う」ということで。

自分が解消しなくてはならない課題が何かは確かに分かっている。だが、それを正面から受け止めて、弱い自分や辛い現実に向き合うことは容易ではない。

「痛みはあなたの一部なの。感情を見せて通わせてようやく人は信じ合える」とは言えど、正直になることは痛みを伴う。

頑張った先に何も無かったら?踏み出したところで何一つ変わらなかったら?という不安だってある。
いつになってもいくつになっても、葛藤は私達を手放してはくれないのだ。

だが、それを避けていてはいつまで経っても自分を愛することなど出来なくて、愛したい人を愛することだって叶わない。
失敗するかもしれない、間違えるかもしれない。
でも、乗り越えた先には、必ず掴めるものがある。一回り成長した自分がある。

失敗だって、決して悪いことではない。
自分の人生は、誰かの失敗した人生によって救われているし、自分の不甲斐ない人生もまた、誰かの人生の支えとなっている。
そんなささやかな奇跡が、今日もどこかで起きている。


そう思えば、あなたも私も前を向くことが出来るだろうか。

立ち止まり、振り出しに戻り、後退しながらも、それでも前に進んでいるはず。どうにもならないことばかりだけれど、それでもどうにか生きて行ける。今日何かを失ったとしても、今がどん底にあったとしても、いつかのどこかの結実に向かって、私達は進んでいる。

差し出された酸っぱいレモンを甘いレモネードに変えることが出来る、それが人生という長い旅路を生きる理由だ、きっと。

私達は大きなうねりの中にある

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生きとし生ける者とは、いつか死にゆく者と同義だ。

私達は、ある時に生まれ、ある時にこの世界を去って行く。

だが、それは消滅というわけではない。

第5話で、ケヴィンがランダルの娘2人にこんなことを話す場面がある。

人生はカラフルだ。一人一人が自分の色を加えて行く。
絵は大きくないが、あらゆる方向に延々と続いている。無限だよ。
生まれて来る前も死んだ後でも、この絵の中にいる。
皆がどんどんいろんな色を重ねて行く。
やがて色が混ざり合って一つになる。
愛する人はいつか亡くなる。でも、同じ絵の中にいるんだ。
死は存在しない。始まりも終わりもない。あるのは今だけ。
生きている人も死んだ人もこの絵の中にあってみんな一つなんだ。

そのルックスで世渡りして来たが故に、どこか間抜けなイケメン・ケヴィンが、いつもとは異なる真剣な表情で姪達に語り掛ける。
それは、死を恐れる少女達への適当なあしらいやその場凌ぎの思い付きでもなく、彼の心に流れる真理であり、この作品に通底する一つのテーマだ。

彼が語る様に、私達の魂とは一つの大きなうねりの中に、一つの大きな輪の中にあるのではないだろうか。

家系図のことを、英語では「family tree」と言うそうだ。

この単語の様に、家族という長い歴史の中にそれぞれが一つずつの小さな実を付けることで、一本の大樹を育てる。そしてそれは、一本の樹だけでなく、そこから落ちる実や種によって新たな芽を生やすなど、縦にも横にも様々に拡がって行く。根っこは地中深くから幹を支え、先端の枝は空高くに向かってどこまでも伸びて行く。真の意味で樹が枯れることはなく、再生を繰り返しては無限の命を紡ぎ出す。

『THIS IS US』は、三つ子とその両親のドラマであるが、そこから更に過去へと遡って、彼らを創り出した一つ一つの命の存在を取り上げる。
綿々と続く家族の歴史があって、今のあなたや私があり、私達が死んだ後にもその歴史は果てることが無いことを、彼らは教えてくれる。

そうやって概念的に捉えれば、私達が消滅することは無いわけだが、人格の形成という点でも、私達が消えて失くなることもないだろう。

なぜなら、人が人と生きている限り、私達は互いに作用し合っているし、目の前の相手やある時に出会ったあの人を取り入れながら生きているからだ。誰かの生き様やその人から授けられた言葉を血に換え肉に換え、いつの間にか彼や彼女を私の一部にして、そうして人は生きて行くのだ。

人生の最期に思い浮かべるのは、自分が生まれた瞬間ではないだろうか。
そんなことさえ思わせてくれる、それが『THIS IS US』というドラマだ。

愛された記憶が、私の人生を支えてくれる

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36歳になっても、ひ弱で揺らぎまくりで迷える子羊の如き3人だが、彼らに対比するかのかの様に、父と母は偉大で寛大で力強い存在として描かれる。

この夫妻にして父母、とんっっっっっっっっっっでもなくすんっっっっっっっっっっばらしい両親なのです(もはや人格者)

若くして3人の子どもを生み育てることは、父にとっても母にとっても並大抵のことではないと想像出来るし、実際、子育てに夫婦関係の維持に自らの人生のために、格闘と葛藤を続けるジャックとレベッカ。
忙しない日常に忙殺されるけれど、そこにはいつだって、何が何でも我が子3人を守り抜くという、底のない愛が貫かれている。

実は、子ども3人の内、ランダルだけはジャック・レベッカの実の子どもではない(妊娠した三つ子の一人は、お産の時に亡くなってしまった)。
ランダルは、自身のルーツに疑問を抱えたまま大人になり、血縁上の父・ウィリアムを探し出して再会するが、母・レベッカがウィリアムと面識があったこと、それをひた隠しにされ続けて来たことにショックを受ける。

そんな折、ランダルの創り出した妄想の中で現れる亡き父・ジャックは、妻・レベッカについて「結婚生活も俺も完璧じゃなかった。彼女自身も問題があった。でも、全部の鍵を閉めてみんなを守った」と語る。

レベッカは、言ってしまえばエゴと独占欲のために、実の父の情報をシャットアウトしたと言えるかもしれないが、それはやはりランダルのためであって。
母親の偉大さの典型の様なものを纏っているのが、このレベッカである。

一方のジャックも、「親の背中は子供を背負うためにある。何があっても子どもを背負って起きる気があるか」と問われては、ランダルをおぶって腕立て伏せを続ける漢気っぷり(妻に対してのイケメン度合いも凄まじい)。

そんな夫を見て、「素晴らしい父だから」と、息子のもう一つの(実の父と生きる)人生を奪い、嘘を吐く覚悟を決めた、という経緯があるのだ。

このエピソードからも分かる通り、Big3は、ジャックとレベッカから信じられない程の愛情を注がれて育った。そして、彼らは絵に描いた様な理想の夫婦であり親で在り続けた。

己の人生になかなか納得することが出来ず、自分を認めることも難しいBig3だけれど、両親から受けた真っ当で真っ直ぐな深い愛情は間違いなく本物で、いつだって彼らの拠り所となるだろうし、その事実が自らの人生に誇りを持たせる一本の杖となるだろう。道に迷った時には、父と母からどれだけ愛されていたかを思い出せば、彼らはどこまででも歩いて行けると思うのだ。

そんな、良き父・良き母の2人だが、彼らにも若い時分があったことを忘れてはならない。

結婚前の2人は、それぞれに悶々とした、うだつが上がらない若者時代を過ごしていて、ジャックなんかは人生に絶望し切っていたとさえ言えるほど。

そんな、褒められた人間とは程遠かった2人が、互いからの愛を得て、共に家庭を築き、新たに愛する存在を抱えたことで、強く逞しく正しくなって行ったことに価値があるのであって、そこに私達は希望を見ることが出来るのである(親と子を同年代のキャストが演じることに特別な意味があり、それがこのドラマを成功に導いた要因の一つでもあろう)。

完璧な人間も完全な人生も、この世界にはない。
人はいとも簡単に崩れるし、大切なことをすぐに忘れてしまう。

そうなら、その度に思い出そう。この地球には愛が溢れていることを。
守りたい大切なものがあって、そのためならどんなに愚かにもなれる父や母がいることを。

そうそう、プリキュアも歌っているではないか。
お互いピンチをのりこえるたび 強く近くなるね、と。

両親と比較すると3兄妹は頼りなげだが、それぞれに個性的で魅力的。

自由奔放に見えながら、本当は誰よりも優しくて、妹や弟のためなら自分を犠牲にしてみすみすチャンスを逃してしまうお人好しのケヴィン。

幸せになることを恐れながらも、兄貴や弟を誇りに思っていて、素直になることに努めて愛の形を追い求めるケイト。

劣等感を抱えつつ、自分のことよりも人のためにすぐ尽くしてしまって、身も心もボロボロになりがちな優等生ランダル。

兄妹って、唯一無二の特別な間柄であり、その絆と連帯には運命的な結び付きがある。

一人一人、才能も能力もある。
それなのに、繊細でナーバスで精神的に脆弱で、だけれど人が良く、故に成功をなかなか掴めないというところは、彼ら3人に共通する特徴だ(自分を信じられるかどうかで人生が決まってしまうのだから、何事も捉え方次第だよなあ、ほんとうに)。

互いに課題を突き付けながら成長を図り、共に喜怒哀楽を分かち合える、それが家族の幸せというものだ。

まだ年若い(と言って良いよね?)3人が悩みながら失敗しながらも、自らの意思で自分の道を選び取っている、そのことに何にも変え難い価値と意義がある。何年かかるかは分からないけれど、そうやって泥臭く歩んで行くことで、自分の息のしやすい生き方を、求めていたものの本質を、見極め見定めて行く。

たとえ一人に思えても、私達は絶対に、独りぼっちじゃない。

family treeを構成する、愛すべき人々

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3兄妹も両親も実に魅力的なキャラクターだが、彼らの人生は彼らだけで成り立っているわけではない。

例えば、ケイトのパートナー・トビーは、彼女と同じ減量を目指す自助グループに通う肥満者なのだが、その心は誰よりもイケメン。

その体型故に女性にモテない過去を送って来たであろう彼は、だからこそ、女性を落とすためのあれこれをノウハウとして持っている(そして、とにかくマメ!)。

何でもない日にサプライズを仕掛けるなど、ホスピタリティたっぷりの紳士な振る舞いとユーモアを交えた饒舌な語り口で、ケイトに自信を持たせて前を向かせてくれる。

しかしながら、「ダイエットを止めるよ。でも、君のことは支える」という揺らぎも見せるトビー。
それは、彼らしい楽観性から来るものでもあるかもしれないが、自分に対する甘えと言い訳であることには違いない。

ケイトは、何よりも自分の減量が最優先事項となっており、だからトビーと距離を取ることに。
自信を付けて愛を得るために減量に励むはずが、これでは本末転倒なのだが、そうした矛盾をどこまでも真面目にやってしまうのが人間というものでもある。

こうした、誰しもが持っている人間の弱さを、ありのままに率直に描く点に、私達は好感と親近感を覚えるのだ。

人は、誰かに認められたくて承認されたくて肯定されたくて仕方がない。
そのために力を振り絞って頑張るのだけれど、それが達成出来ないかもしれないと気付いた途端、全てを投げ出してしまう。
自信の無さから努力を放棄し、あと少しで手に入るかもしれなかった幸福にも目を瞑る。
常に全力全開で走り続けられる人間なんていないのだ。

だが、その自信の無さから来る不安や人を傷付けてしまう攻撃性とは、守りたい・守られたい・愛したい・愛されたいという気持ちの裏返しでもある。

求めたり突き放したりくっ付いたり離れたりしながら、ちょっとずつ歩み寄って行く。それで良いのではないだろうか。

ランダルの妻・べスも、素晴らしい女性だ。

女々しくて粘着質で、実はコンプレックスの塊を抱えたランダルを、時に母の様な大きさで包み込み、突如現れた義父・ウィリアムのことも温かく受け止める。

ああ、もう本当に、どいつもこいつも、どうしてこんなにも、人間って人間なんだろう(愛おしさを表す最上表現だと思って頂きたい)。どいつもこいつも、もう、らぶ!!!

迷いながら惑いながら、彼らのシーズンは続く

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ほつれたりこんがらがったりした糸を、一つ一つほどきながら、離れてしまった糸を一つ一つ結び合わせながら、そうして人と人は溶け合っていく。混ざり合って行く。

『THIS IS US』の彼らも、私もあなたも、これで良いのか、この選択は間違っていないのかと常に自問しながら、明日も明後日も生きて行くのだろう。

愛された記憶がある者なら誰しも、「過去は変えられないぞ。今どうしたい?」というジャックの言葉を胸に携え、その時父ならどうするだろうという尺度を頼りに、前へ歩んで行くことが出来る。

過去の失敗が生んだ後悔が今日の自分を奮い立たせ、未来の正しさへと進んで行く。それが、人生だ。

ランダルの生みの親・ウィリアムも言っているではないか。
「お前はよく頑張っている。素晴らしい人生を築き上げた」と。
そう、私達めっちゃがんばってるんだよ。えらいよ。

それにしても、とんでもない作品に出会ってしまったなあ。
アメリカではシーズン5が放送中で、日本ではシーズン4まで配信されている本作。すっかりTHIS IS US沼にハマった私は、これから毎日何時間これに費やすことになるだろうか。

さて、明日は何話見ようかなっと。

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