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<書評>『アラビアン・ナイト』(第10巻以降)

『アラビアン・ナイト』全18巻及び別巻 前嶋信次(前島氏逝去後は池田修)訳 平凡社 東洋文庫 1966年7月10日第1巻初版発行 1992年6月10日第18巻初版発行

アラビアン・ナイト全巻
第10巻にある挿絵

(以下、参考までに第9巻までをまとめたものの冒頭解説部分を再掲)

 「アラビアン・ナイ」、「シエラザード」、「千夜一夜物語」という様々な名前で呼ばれる、世界的に有名な説話集をアラビア語原典から全訳したもの。全訳完成までには、発行期間で見ても26年かかっているが、翻訳の仕事にはさらに加えて10年以上要したと思われる。そのため、一人の翻訳者の寿命では完成できず、偉業は後継者に託されて完成することとなった。

 それだけで、もうこの仕事は歴史的にただ称賛されてしかるべき、偉大かつもの凄い成果だと思う。そして、こうして平易な日本語で読める僥倖を、私たちはいくら祝福しても足りない。ワッラーヒ!(本書で学んだ、アラビア語の嬉しいときの感嘆語)。

 「アラビアン・ナイト」は、その名の通り1001個の説話によって構成されているが、その全話は18巻に収録されている。一方、巷間に流行した「アラジンと魔法のランプ」「アリ・ババと40人の盗賊」の物語は、18巻内ではなく別巻とされた。この結果、説話の総数は1003個になった。

 また別巻とされた理由は、そもそもこの二つの物語が「アラビアン・ナイト」アラビア語原典に入っていないからだ。それは、フランスの東洋学者であり、「アラビアン・ナイト」をヨーロッパ社会に紹介したアントワーヌ・ガランが、あたかも「アラビアン・ナイト」中の一つの物語として入れてしまったことによる。さらに、話が非常に面白いため、人口に膾炙し、なかんずくディズニーのアニメーションやハリウッド映画の題材となったことが大きく影響している。

(以下、新たに第10巻以降の気づきの点などをまとめたもの)

 正直言って、第10巻は面白くない。なぜなら、その大半がイスラム教の教義とコーラン(クアラン)の意味とマホメットらの歴史に対する、専門の学者と聡明な少女との問答になっているからだ。つまりそこには「物語」はない。ただひたすら「対話」または「啓蒙」があるだけなのだ。

 だから、イスラムを学ぶ上では良いかも知れないが、「アラビアン・ナイト」に物語としての面白さを求めている読者としては、幻滅するだけになるだろう。事実、英仏の翻訳者はこの部分を省略している。実際、英仏の読者にとって、省略されたからといって、まったく違和感も欠乏感もない受け取り方をされたことが、容易に想像できる。

 第11巻の「あとがき」の末尾に、訳者の前嶋信次が自らの寿命が近づいていることを書いている。そして実際、次の12巻(1981年)を最後(正確には、別巻となった「アラッー・ディーン(アラジン)と魔法のランプ」及び「アリ・ババと四十人の盗賊」の翻訳終了後)に逝去してしまった(1983年6月3日)。

 出版社は完結まで継続するか否か相当に悩んだそうだが、1985年に池田修が翻訳を引き継ぐことで完結に向かうことになった(第18巻発行は、1992年。1966年の第1巻発行から計算すれば、26年。まさに四半世紀の偉業である)。

 繰り返しになるが、第10巻以降は、イスラム教の教義やご利益に関する物語が多くなっている。これを、手を変え品を変えて、様々な物語として聞かせられていく(読んでいく)と、自然と「イスラムの教えはご利益が沢山あって、とても良いものだな」と洗脳されていくことを感じる。イスラムを含め宗教全般に対する教養が多くない人にとっては、たやすくイスラムに帰依する契機になることだろう。

 幸い私はイスラムを含む宗教については多少の知識があり、たとえばマホメッドとイエスが同時代人ではないことを知っているので(クアランには、イエスはマホメッドの弟子である預言者と記載されている!)、イスラムに帰依しようとは微塵も考えることはないが、「アラビアン・ナイト」の持つイスラム布教との強い関係性を実感する内容だ。

 そういう観点もあったのだろうか、「アラビアン・ナイト」を英訳または仏訳したヨーロッパの学者たちは、こうした「イスラム教万歳」関連の物語については、「物語として未完成または面白くない」ということで、翻訳の対象外にしたということだ。キリスト教世界としては、そうせざるを得なかったのだろう。

 一方、『アラビアン・ナイト』を読むことで、イスラムだけでなく、中世から近世のペルシャ、シリア、ベドウィン、イエメン、エジプト、マグレブ(リビア、チュニジア、モーリタニア、モロッコ)の様子や、これらの地域毎の相対的位置関係がよくわかった気がしてくる。私の印象では、ペルシャ>シリア>エジプト>イエメン>ベドウィン>マグレブという感じで序列があり、特にベドウィンは、遊牧民であることから非文明化の蛮族という認識をされている。またマグレブ諸国民は、だいたい魔法使いなどの怪しげな凶悪犯罪を行う人物の出身地となっている。私が、2016年から2019年にヨルダン(アンマン)に住んだ経験から、これらの「アラビアン・ナイト」における肌感覚は、21世紀の現在まで続いているように思う。もっとも現代のベドウィンは、蛮族などではなく、ヨルダン南部の観光地となった砂漠地帯(ペトラやワディラム)で、観光業(及び映画撮影の場所として)に大いに勤しんでいるが。

以下、第11巻後半以降の物語等についての感想を述べたい。

 第11巻後半の「蛇(くちなわ)の女王」の物語は、入れ子細工のようにストーリーが重層的になっている他、蛇の女王・魔物・妖精の入り交ざった交流関係に加えて、ペルシャ対インドの戦争が絡んでいて、なかなか面白い構成になっている。特に、主人公たちが魔界のものたちと交流(一人の主人公は、魔王の娘と婚姻してしまう)を持つのを、非常に興味深く感じた。

 ところで蛇のイメージは、深層心理的にはエデンの園の蛇であり、「古代の宇宙人」的には、宇宙人そのものだから、主人公が蛇と交流を持つというのは、神話学的な面及び心理学的な面において、人類共通のイメージにつながっているのだと思う。

 第12巻は、有名なシンドバードの物語が入っており、「アラビアン・ナイト」として一般に良く知られている物語だけあって、出来が良く、面白く読めた。しかし、翻訳者前嶋信次の最後の翻訳となってしまったのは、実に残念なことだった。その理由として、前嶋氏の解説がとても良かった。シンドバードは、ペルシャ語でsind=インドとbad(都市)が結合したものだとあり、これには目から鱗が落ちた。また、ギリシアの「オデェセイアー」と共通するものが多く、正確には「オデェセイアー」から引用したものがあるということだった。

 ところで、「アラビアン・ナイト」を読んでいて、登場人物が不幸に遭い、荒野を彷徨する下りが度々出てくる。この際に、食事などはどうしているのかと気になるのだが、水を川や泉から飲むのは理解できるが、食事は雑草などを食べて生き延びたと書かれている。これが普通に出てくるのだから、当時のアラブ世界では、食料がないときは雑草を食べるのが普通だったことがわかる。雑草にどれほど営養があるのかはわからないが、草食動物が草を食べて立派な身体を維持しているのだから、人が同じことをしても問題ないのが自然だと思う。

 第13巻は、最初の翻訳者前嶋信次が1983年に逝去してしまった後、一時は断念した全巻翻訳を達成すべく、後継者として池田修が指名され、1985年に発行にこぎつけた最初の巻となった。従って、私も後から購入したので、箱が黄ばんでおらずに新しい。

 しかし、内容は箱ほどには新しくは感じない。また、これまで多々出てきた商人の息子の話や二人の王子の話が入っている。そうした中では、特に二人の王子の物語である「クンダミルの王の子アジーブとガリーブの物語」には、なかなか勇壮な合戦場面が描かれており、「アラビアン・ナイト」特有のロマンチックさよりも戦記物としての面白さがあった。実写版として「アラビアン・ナイト」から新しく映画化するのであれば、この物語は最適だと思われる。

 第14巻では、「アフマド・アッダナフとハサン・シャウマーンと女ペテン師ザイナブ及びその母の物語」が一番面白かった。ザイナブというのは、アラブ圏では女性によくある名前だが、アラブ社会で女を危険視するその理由が、よくわかる世渡りのうまい母と娘の物語で、この内容も映画化すれば、21世紀のエンターテイメントとして受けそうな主人公だろう。

 また、「アッサイナフ・アルアザム・シャーの王子アズダシールとアブド・カーディル王の息女ハヤート・アンヌフース姫の恋物語」は、人と異世界の女との婚姻物語で、日本にもある「天女の羽衣」と同系列のものだが、さすがにアラブは広く、アラブ圏以外のいろいろな地方を舞台にしている点が面白かった。

 第15巻には、長編がいくつか入っているが、「商人と金細工師と銅細工師を営むふたりの息子、および金細工師の息子ハサンとペルシャ人の詐欺師にまつわる物語」は、毎回悪人とされるペルシャ人が、詐欺師のみならず魔法使いとしても描かれていて、当時のエジプト人からみたペルシャ人の印象がよくわかる内容だった。また、魔法と錬金術との関係も描かれていて、そうした観点からも参考になるものが多かった。

 第16巻は、第15巻のハサンの物語の続きが前半を占め、後半は「バグダードの漁師ハリーファの物語」になっている。後者は、アラビア語のカリフとハリーファが、同音異義語となっていることを利用したもので、カリフは当時イスラム社会の君主にして法王、一方ハリーファはたんなる漁師で、この二人が立場を代えて物語を展開するあたりは、日本の「遠山の金さん」に似た内容になっていた。

 第17巻は、第16巻の終わりから続く「ヌール・アッディーンと帯網娘マルヤムの物語」が中心で、他はショートショートのようなものが多く入っている。このマルヤム姫というのが、当時のビザンチン帝国(東ローマ帝国)の王女で、アラブの海賊に誘拐された後、主人公のアッディーンに奴隷女として買われ、後に嫁になるという物語だ。この背景には、十字軍時代を経験した後の、アラブ(イスラム教)対ビザンチン(キリスト教)という構図が前面にある一方、アラブ男とビザンチン女の恋愛という融合の意志も感じられる。

 なお、ヒロインであるマルヤムは、美しい帯を編む女性的な部分が特徴である一方、実はビザンチンの騎士どもを次々と切り殺す凄腕の女剣士であるとしているところがかなり面白い。しかし、これほど多くの男ども殺した女を嫁にするというのは、いくら物語でもちょっと辛いのではないかと、ヒーローであるアッディーンに同情してしまった。もし浮気でもしたら、寸時に剣で首をはねられてしまう。

 ここまでで930夜が終わった。残りは71夜となり、長いマラソンのゴールが近づいてきた高揚感に包まれる奇妙な感覚になっていた。この長大な物語を読むことは、なにか一つの仕事をする、あるいは学びを終える、そんな感じにどこか似ている。

 最後の第18巻は、日本の「はなさかじいさん」のような、徹底した善人と徹底した悪人の物語が二つある(「染物屋アブー・キールと床屋アブー・シールの物語」、「アブド・アッラーフ・ブヌ・ファーディルと兄弟たちの物語」)。そして、イスラムの神は、ジンなどの化け物を使って、善人を助け、悪人を懲らしめる結末になっている。日本のような幸運に恵まれるのではなく、人を超越した存在が手を下すという構造だ。そこに、日本とは異なる「契約社会」の概念があるように思う。

 最終巻の最終話となる「靴直しマアルーフとその妻ファーティマの物語」は、1001夜の最終話に相応しく、市井の人々、カリフ、姫、魔物らがオールスターキャストのように出てくる上に、主人公の運命が二転三転する物語展開となっている。その中で気になったのは、ストーリーとは関係ないことだが、登場人物がやたらとワインを飲みまくり、さらにワイン(酒)を飲むことを、詩人の詩を引用して大いに称賛していることだ。

 イスラム教では本来は禁酒のはずだが、「アラビアン・ナイト」の世界では第1巻から最終巻の物語までの全てにおいて、厳格な禁酒はまったく行われておらず、登場人物たちは大いに酒宴を楽しんでいる。実は、これこそがアラブ社会の本当の姿なのではないだろうか。

 「アラビアン・ナイト」は、大臣の娘シエラザードが、女性不信に陥っていたシャハリヤール王から、これまでの女性たちのように、夜伽を終えて朝が来た時に殺されないため、次の夜まで興味を惹くように話し続けた、長い、長い物語が続く内容となっている。そして1001夜の物語が終わった後、幸いなことにシャハリヤール王は、シエラザードを殺す考えを捨て去っていた。物語を聞かされるうちに、女性不信が消え、シェラザードに対する愛情が湧いていた。そして、1001夜を過ごした間、王と姫の間には三人の王子が生まれていた。こうして王と姫とその王子たちは、末永く幸せに暮らしたと綴って、この壮大な物語が終わる。

 その終わり方は、「アラビアン・ナイト」全体の物語に共通する、あっけない簡素な結末になっているが、この長大かつ壮大な物語の最後にしては、実に味気ない読後感に襲われるエンディングと言わざるを得ない。例えばハリウッド映画ならば、壮大なスペクトラムをぶち上げて、盛大なお祭り騒ぎで華々しく終わるのだろうが、そうしたことはまったく肩透かしになっている。

 そうしたことから、人によっては「もっと読みたい」、「もっとハリウッド映画のような爽快な結末を楽しみたい」、といった期待を持つこともあるだろう。しかし、むしろこれが、逆に「物語はさらにつづく・・・」という読み方もできるので、物語の結末としては、むしろより相応しいのかも知れない。そう、「アラビアン・ナイト」の世界は、21世紀の今も、アラブ世界のどこかで続けられているのだろう。

 そして私自身としては、この壮大な物語を長い期間をかけて読み終えた、一種の大きな達成感に満たされているだけで、もう十分、お腹一杯だと感じている。


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