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<閑話休題>マフラーと手袋、そして肩書と仮面(ペルソナ)

 子供時代からずっと、冬になってもマフラーや手袋を使わなかった。さすがに最近は加齢もあってマフラーと手袋を使うようになっているが、子供時代は、TVのアクションドラマや漫画のヒーローが、ことごとくマフラーや手袋をファッションにして使っていたこともあり、それが防寒のためのものではなく、単なるファッション=お洒落=見え貼り=カッコつけのものだとずっと思っていた。

 また、子供時代は貧乏だったので、そもそもそうしたお洒落をすることができなかったことに加え、なぜか物心ついたころから、ファッションとかカッコつけということに忌避感を持っていた。それがなぜなのかは未だによくわからないが、もしかすると前世で学習する経験があったのかも知れない。それでマフラーも手袋もしないため、両手はポケットに入れていたが、冬はいつも首と手が寒かったし、風邪も良くひいた。それでも、マフラーと手袋をすることに対しての忌避感は消えなかった。

 成人した頃、西部劇の主人公たちがなぜ(毛織でなく布製の派手な)マフラーをしているのかという理由を知った。それは、毛織のマフラーと同様に防寒対策であり、また首筋にマフラーを巻くことによって、かなりの確率で風邪予防につながるということだった。手袋も、冬場に自転車に乗るようになって(子供時代は自転車が買えなかった)から、風除けの必需品だと気づいた。その後は、マフラーと手袋に対しての忌避感が消えていった。

 こうして私の忌避感は消えても、マフラーと手袋がアクションヒーローたちの必須アイテムであることや、街中の人たちの自分を飾りつける道具であることは変わっていない。私はそうしたことがとても嫌いなので、なるべく地味なものを選んでいるのだが、一方飾り付けたい人たちには、本来の自分をよりよく見せるための道具として有効活用している。

 つまり、精神分析学的に言えば、マフラーも手袋も、自己(自我)を覆い隠しつつ社会に対して見せる仮面(ペルソナ)の一部であることがわかる。つまり、マフラーと手袋で装飾した自分を社会に見せることで、そうした道具のない素のままの弱い自己(自我)を守り、また社会に対する自尊心としてのアイデンティティーを維持しているのだ。

 この仮面(ペルソナ)というのは、社会人では名刺に書かれた肩書等としても活躍している。例えば、素のままの「A田B郎」だけでは、社会人としてのアイデンティティーを誇示かつ維持できないため、(入試が難しいC大学を卒業して)高給のD会社に勤めているなどの、自分が所属(した)する組織の肩書を自らの仮面(ペルソナ)にしている。また、組織に属していない場合は、例えば「実業家」、「芸能人」、「職人」、「芸術家」などの肩書を仮面(ペルソナ)にして生活している。また、そうしたものがないと社会では生きづらいのが、今の世界の現実だ。

 ところが、当然本来の自己(自我)とは、そうした肩書だけで存在しているわけではない。逆にそうした肩書を無くしたところに本来の自己(自我)があるはずだ。そして理想的には、本来の自己(自我)あるいはあるがままの自己(自我)のみによって、人と人との社会が成立していることが望ましい。しかし、そうした社会は文字通りユートピア=無い場所でしかない。人と人は、自己(自我)で交流しているのではなく、仮面(ペルソナ)=肩書で交流している。

 そうして、人は肩書という仮面(ペルソナ)とともに生きるのが当然になってしまった結果、本来一時的につけているだけの仮面(ペルソナ)が、もう生身の身体(自己・自我)にしっかりと貼り付いてしまって、どうにも取れなくなっている。例えば、定年退職した後「俺は大会社であるE社の部長だった」と過去の職歴にしがみついている人は、その典型だろう。その人は、「大会社であるE社の部長」という肩書そのものが自己(自我)と一体化し、かつ溶融してしまったため、その仮面(ペルソナ)が既に無くなり通用しなくなっているのにも関わらず、それがないとどうにも自尊心としてのアイデンティティーの維持ができないため、無くなっているものに仕方なくしがみついているのだ。

 私は子供の頃から、そうしたアイデンティーとか仮面(ペルソナ)などを知っていたわけでは当然ないし、またマフラーや手袋の使用が仮面(ペルソナ)となるからという理由で忌避したわけではないが、どうにも「裸の自分」にとって「余計な鬱陶しいもの」という生理感があって、なぜか嫌いだった。そして、いつしかそうした生理的な忌避感の対象が、ファッションとしての道具から、肩書などの社会的なツールへと拡大していった。そのため、名刺、履歴書、ネクタイとスーツ、ブランド品などは、どうにも好きになれずに生きてきた。

 そう考えると、今の名刺がない(持てない)、また名刺を必要としない年金暮らしというのも、なかなか心地よいものだと思うが、一方では、社会人としての信用度ということでは不安を感じることが多々あるし、何かの機会に(たいてい自分より年下なのだが)蔑視されているように感じるのは、実は私も仮面(ペルソナ)に依存して生きてきた証拠であり、また一方的な被害妄想なのかもしれない。

 しかし、他者を判断する際に肩書=仮面(ペルソナ)を利用するのは、誰でも使いやすく分かりやすいのが現代社会であるから、それはそれで仕方ないことなのだろう。ただし、その肩書そのものが、メディアなどによってなんら精査されることなく流通している情報をもとに形成されているという、現代社会の抱える根本的な問題は残っているが。


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