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<小旅行記>柴又帝釈天と寅さん記念館などなど(その2)

 庭園鑑賞を終えて、近くの山本亭に向かった。住宅街の細い道を歩きながら、母に「れいこちゃん」のことを聞いた。「れいこちゃん」というのは、私が4歳の時に、同じアパートにいた年下の大柄な女の子で、実は私の初恋の相手だ(なお、同じ幼稚園にいた「すみれちゃんが可愛い」とよく母に話していたようだが、私はまったく覚えていない。でも、古びた集合写真を見ると、すみれちゃんはたしかに可愛い)。しかし、阪田寛夫の歌「さっちゃんの歌」のように、すぐに「れいこちゃん」は遠くに行ってしまった。そのころかまたはしばらくしてからか、NHKで「さっちゃんの歌」を良く聴いて、「これはれいこちゃんのことだ!」と私は勝手に思い込んだ。

 そして私は、「れいこちゃん」は熊本出身と聞いていたので、お父さんが熊本に転勤したためにいなくなったと思っていた。それを、ちょうど良い機会なので実母に聞いてみた。すると、私は全く思い違いをしていたことがわかった。

 実母によれば、「れいこちゃん」のお父さんは熊本出身の大工さんで、お母さんが新潟出身の大柄な女性だったそうだ。「れいこちゃん」が大きかったのはお母さんの血筋なのだ。そして、お母さんの親戚が埼玉の大宮にいて、「れいこちゃん」たち家族のための家を建ててくれたので、そこへ引っ越したということだった。「そうだったのか・・・」と私は、心の中でつぶやいていた。でも長年の疑問が解けてすっきりした。「でも、やっぱり、れいこちゃんは遠くにいったことは変わらないね」と実母に言おうとしたが、恥ずかしいので止めた。

山本亭

 山本亭は、ガラス製品で財をなした富豪が建てた和風庭園が美しい住宅跡を、今は庭園として開放しており、また隣接した茶室とともに住宅跡を会合などに貸している。実母はここにも来たことがあって、施設の利用方法をよく知っている。入口で入場券を買う時、「いっしょに抹茶セットも頼んでね」というので、2枚買い求めた。中に入って、庭園が正面から良く見える縁側に座っていると、抹茶セットが運ばれてきた。大ぶりな椀の抹茶と、小さな柿に似せた和菓子が、庭園の風景によく似合う。また、室内の清楚な雰囲気にも合っている。

抹茶セット

 庭は、小さな池や滝を配していて、施設の説明書きによれば、書院造りの和風庭園だそうだが、そこにある木々や石が一服の絵画のように配置されている。素晴らしいことに、柴又公園や江戸川が近いせいもあるだろう、鳥の声がよく聞こえる。庭と池と鳥の声。そして、抹茶と和菓子。いつまでも時間が経っていくのが、とても心地よい場所だ。

縁台から庭園
庭園

 だが、次の訪問先もあるので、抹茶を十分に味わった後、邸内の他の場所を散策する。客間から奥に行くと、住宅で利用していたときの玄関があり、豪華な古い人力車が置かれている。玄関に来たお客を最初にもてなすのは、水仙を描いた大きな板絵。玄関脇には、欧風の応接間があり、暖炉、蓄音機、ソファーなど、明治の頃の金持ち趣味が反映されている。

応接間

 山本亭を出て裏庭に出ると、そこには別棟の茶室がある。門の向こうに小ぶりな庭と小屋が見えた。その近くには、防空壕跡もあった。ここも空襲があったのだろうか?さらに歩くと小さな蓮池。そこから先の玄関口に回る。道路に面している長屋門が見えた。お客はこの重厚な門で車(人力車)を下り、お抱えの車夫は門の左右にある小部屋で待機し、お客は石畳を歩いて玄関に向かったのだろう。その風景が目に浮かんでくる。

 長屋門から道を挟んだ向かいの丘が、もう柴又公園になっている。長い階段を昇る。そこからエレベーターで下に降りると、そこが寅さん記念館と山田洋次ミュージアムになっている。老人が多いためか、エレベーターの案内音声が異様に大きい。「そんなに叫ばなくてもよく聞こえるわい」とエレベーターに言いたくなってしまった。

柴又公園からの風景

 チケットを買って、寅さん記念館に入る。時間帯が混雑時とタイミングよくずれたのか、私たちの貸し切り状態だ。実母と「寅さんの生い立ち」というジオラマ劇場を順に見ていく。最初は寅さんが生まれたジオラマだったが、二つ目のジオラマは、東京大空襲だった。当時江東区大島に住んでいた、大空襲の生き残りである実母は、そのジオラマを見るのを止めて次のジオラマに移った。私が子供時代によく、「お母さんは戦争映画が大嫌い!」と言っていたのを思い出した。

入口から

 ジオラマは、その後寅さんの家出(京成小岩駅の妹のさくらとの別れの場面!)、テキヤ修行と続き、最後は江戸川の土手で、妹のさくらと再会する場面で終わる。そして、ここから「男はつらいよ」の長い物語は始まるのだ。

これは源公との再会場面

 ジオラマを見た後に右に移動すると、そこには「男はつらいよ」の映画で実際に使用した「とらや」のセットが移設してあった。奥座敷の端に、等身大より大きな寅さんが座って居眠りしている。その右側には寅さんが、二階の自分の部屋からどかどかと降りてくる階段がある。

居眠り寅さん
二階へ続く階段

 そして、店の奥(勝手口側)へ抜けると、そこには「朝日印刷」という「たこ社長」が経営し、さくらの夫である博士(ひろし)が働く町工場がある。その工場にある印刷機、事務機器などは皆本物だ。そこで仕事をしている姿が目に浮かぶような、巧妙なセットになっている。もしかすると、夜中にここの輪転機が回っているのかも知れない。それを聞いた「とらや」にいる寅さんが、「うるせーぞ、このタコ!」と怒鳴っている声が聞こえるようだ。

朝日印刷

 実母とそんなことを話しながら先に進むと、そこには「三丁目の夕日」ともいうべき、下町の少し大きなジオラマが展開していた。実母は「懐かしいわねー」といいながら、酒屋、お茶屋、煎餅屋などのジオラマを順に見ていた。そしてジオラマの先には、当時の帝釈天にあったという人力鉄道の模型があり、またその先には、映画で使った寅さんの服や鞄が展示してあった。

ジオラマ

 寅さんの鞄の中身はいつも気になっていたのだが、ここで初めてその中身を知った。時刻表が沢山あることはなるほどと思うが、髭剃りセットが意外と高級なタイプなのに驚いた。これは、ヨーロッパの金持ちが使いそうな立派な作りだが、もしかすると寅さんはかなりなお洒落なのだろう。

寅さんの鞄の中身

 また、海外渡航した作品の際に使用したという昔の大判のパスポートがあったが、写真は実際には通用しないものだと思う。なぜなら、帽子を被っているし、顔を斜めにしている。パスポート用写真は、無帽・正面と決まっているのだから。

寅さんのパスポートなど

 その反対側には、昔の長距離列車の座席があって、その窓には、ボタンを押すと寅さんの名場面のビデオが流れるようになっている。寅さんの売り口上はいつ聞いても心地よい。その軽快なリズムと耳に突き刺さる強い言葉。世界に誇るべき日本の大道芸だ。

寅さんのアリア

 その後に、寅さん映画に出たマドンナたちの映像が流れるところを通ると、もう展示は終わる。私たちは、寅さん記念館から山田洋次ミュージアムへ向かう。入口でチケットを確認するのかと思ったら誰もいなかった。建物内は意外と狭い。でも、内容は盛り沢山だ。まず、山田洋次の映画作品の紹介を年代及びシリーズ順に展示している。実母は、初期の作品からよく観ている。当時の日本では、映画が娯楽の王様だったから、相当観ているのだ。

入口

 そのうち、『学校』シリーズのところに来た。全部で4作作っていたのは知らなかったが、第1作は、実母といささか因縁がある。原作本の著者は、平井の夜間中学の教師をしていた松崎さんという人なのだが、その人のノンフィクション本を山田洋次監督が映画化したものが第1作の『学校』だ。そして、お茶の水で行われた松崎さんの出版記念パーティに、実母と私は後段に記した理由で参加したのだが、山田洋次監督が来賓で来ていて、「いつか映画化します」と挨拶したのを覚えている。その原作本の中に実母が生徒の一人として登場している。実母は、戦後の混乱期に小学校を中退させられた戦争の犠牲者の一人だったのだ。もっとも、実母の話は映画には採用されなかったが、同級生の話が数人分、うまくシナリオになっていた。

「学校」ポスター

 ところで私は、京橋のフィルムセンターに毎日通い、池袋・早稲田・三軒茶屋の名画座に良く通った映画青年だったので、山田洋次ミュージアムにある、松竹大船撮影所の模型や実物のカメラなどの展示はかなり面白かった。本当は、こういう世界で仕事したかったのだ。

松竹大船撮影所

 『学校』シリーズの次に、山田洋次監督が手掛けた時代劇シリーズの第1作『たそがれ清兵衛』の展示に来た時、実母は「これを見るとお前のことを思い出すよ。お前も残業しないで帰ってきて、肩身の狭い思いをしてたんだよね」と言った。

 そう、私はあっというまに大きくなる子供と過ごす時間が、仕事よりも大切に思えたため、なるべく自分の仕事を早く終わらせて定時に帰るようにしていた。しかし、今は違ったかも知れないが、まさに昔は「昭和の時代」そのものだから、「残業が多い=勤勉な労働者」という金科玉条があったので、いくらやるべきことを定時までに済ませていても、職場に遅くまで残っていないというだけの理由で、「怠け者」、「さぼっている」と批判されていたのだった。でも、私は清兵衛のような剣の達人ではないし(危険・きつい・汚れる仕事をさんざんやらされたけど)、幸いに(れいこちゃんのように大柄な)妻は健在だ。

 展示の最後に、山田洋次監督が小津安二郎を敬愛していたことが良くわかるものがあった。実際に『東京物語』のオマージュである『東京家族』を制作している。その有名な『東京物語』の尾道の自宅に座る笠智衆のスチールと、『東京家族』のスチールとを比べて、実母は「やっぱり、笠智衆の方がいいね!」と頷いていた。そりゃあ、笠智衆はれいこちゃんと同じ熊本出身の、熊本弁が抜けない稀代の名優だもの。あのセリフがない名演技は、誰も真似できないよ。

東京物語へのオマージュ

 山田洋次ミュージアムの後、来た道を戻り、帝釈天を抜けて、京成バスのバス停に向かう。そこからバスに乗ってJR小岩駅で降りた。実母が「蕎麦でも食べて帰ろうよ」というので、実母が知っている小岩の小さな蕎麦屋に向かった。JR小岩駅から、ちょうど高校生の下校時間と重なったため、大勢の高校生に追い越されながら、私と実母がとぼとぼと歩いていくと、目指す小さな蕎麦屋はあった。夕飯には早い時間ということもあり、店内には誰もいない。

打ち上げのビール

 適当に席に座り、テーブルにあったスポーツ新聞を隣のテーブルに移す。まずビールを頼む。実母が「うまいねえ!」と言いながら、グラスを飲み干す。そして、実母は天ぷらともり蕎麦のセットを、私はとろろ蕎麦を頼む。蕎麦ができるまで時間があるので、もつ煮込みも頼んだ。昔ながらの煮込みの味、この濃厚な汁。長い年月が浸み込んでいる。七味をたっぷりとかけて食べるのが旨い。そして、ビールによく合う。ビールの中瓶3本を空けて、蕎麦を食べ、本日の慰労会は終わった。実母は近くのバス停からニコニコしながら家へ向かった。私は逆方向となるJR小岩駅へ向かう。ビルの合間の空に夕焼けが見えた。まだ高校生の集団が大勢通っている。

小岩の夕景

 錦糸町に着いた後、バス停で待っていると、ビルの後ろに見える空はもう夕闇だった。秋の夕暮れは早い。私はそこからバスで家に帰った。マンションに着いたとき、運河の先はもう夜空で、沢山の灯りが曇り空に反映していた。寅さんの物語が終わったような、そんな気分になっていた。

錦糸町駅前バス停


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