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<海外TVドラマ評>『スーパーナチュラル、シーズン15』及びシーズン全体を通しての感想


スーパーナチュラル シーズン15


 本当は2020年に終了するはずだった最後のシーズン15は、新型コロナウイルス感染拡大により撮影が続行できず、2021年シーズンに持ち越すこととなった。また、通常ひとつのシーズンは22話で構成され、また最後のシーズンとしても特徴あるエピソードを織り込むべきでありながら、いつもあるいわゆる「遊び」としての、主人公をパロディーの世界(例えば、西部劇、ホラー映画、ハイスクールものを茶化したもの)に迷いこませるストーリーから外れたエピソードが、今回はまったくなかったのは、いささか寂しいものとなった(強いて言えば、主人公の少年時代のエピソードと森の精が出てくるエピソードは、こうしたものに近かったが)。


 そうした「遊び」の回がない代わりに、シーズン15のみならず、全シーズン通じてのストーリーに沿ったエピソードが、粛々と展開していくことは、一方ではこれまでのシーズン全てを振り返っているような気分になれる効果もあり、むしろラストシーズンに相応しい語り口になったと言えるかも知れない。

 実際、第1話から中盤にかけて、これまでに登場した主要な脇役キャラクターを次々と再登場させた一方、すぐに彼ら・彼女らを退場(死亡)させているのは、まったくの顔見世的なものに思われた。すなわち、田舎芝居でよくあるような、最後に役者全員がそろって舞台挨拶するようなものだ。またこうしたドラマツルギーがわかりやすい定石に沿っているため、魔女ロウィーナのエピソードについては、次の展開がすぐにわかったが、神に対抗する存在までにはならなかったことには、少しがっかりした。彼女は、けっこう魅力的かつ威力のあるキャラクターなので、神に対する最後の反抗にもっと積極的に参加させても良かったのではないか。

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 以上は、エピソードの中盤くらいまで見たあとに考えた内容だ。そして、ようやく最終話まで見終わって、また別の新たな感想が浮かんできた。

 上記に書いたとおり、このドラマは主人公以外の脇役が非常に魅力的であり、当初脇役として登場した人物が、回を重ねるごとに主人公の疑似家族になっていく展開が面白い。ラストシーズンで戦う相手となった「神」=チャックも、敵でありながら、最初に登場した時の「予言者」兼「小説スーパーナチュラルの作家」というキャラクター設定時から、主人公にとってどこか親しい友人の趣を持っていた。それは、最終シーズンの敵になった時も、憎むべき敵というよりも、一種の家族喧嘩の趣に似ていたと思う。そういう観点では、神が創造した天使や悪魔も、いうなれば主人公たちの疑似家族であり、主人公2人は、そうした疑似家族を支える中心点としてストーリー全体を回しているように見えた。

 そうした疑似家族は、主人公たちが死んだ後の神=チャックなき後の新天国でも継続され、もちろん現実世界よりもはるかに平和で住みやすい世界になっている。なぜなら、そこではまさに住民はみな「家族」だからだ。だからこそ、この物語は、15シーズンもの年月をかけて描き続けた疑似家族の物語だったと言い切ってよいと思う。

 なお、ドラマツルギー的には、神=チャックの背後には、「スーパーナチュラル」全体の製作スタッフがいて、そのスタッフと登場人物である主人公との奇妙な関係が、「神(製作者)に操られる主人公の反逆」という観点から、重層的に描かれている。ただ、この視点は物語を作る側から見ればかなり面白い発想だが、視聴者から見ればあまり関心を持てないテーマだと思うので、結果としては失敗だったのではないか。

 ところで、今シーズンにおいて、神は地上から人類を消失させたが、その後の不気味な世界は、実は既に我々も経験済みだ。そう、2020~22年にかけて、新型コロナウイルスの名のもとに、世界中の街角に普通にいた「人々」が消されてしまったのだ。このドラマに映し出された、東京、ニューヨーク、パリなどの人の姿が消えた街の風景は、そのままコロナ感染防止という名目により、恣意的に人々の姿を排除されてしまった街の風景そのものだった。

 そうした神(為政者)の横暴に対して最後まで良く抵抗した主人公には、もろ手を挙げて応援したい。この世は、神の意志であろうとコロナ感染防止であろうと、どんな理由であっても人は自由であり、街中に人の姿を消しさる(リセット)することはできないし、そうさせてはならないのだ。そして、ドラマの世界だけでなく、新たな全能かつ「人の心を持った」神によって、街中に人々が自由に歩き回る世界を、我々は維持していく責務があるのではないか。つまり、「人の心をもった神」とは、人間自身なのだから。

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