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【長めエッセイ】今日スーパーで手に取った納豆の賞味期限が、あの子たちの卒業式の日だったんだ

教師になって、3年が経つ。
「他人の子供の成長は速い。」と、よく言われるけれど、それは本当だと思う。あの子たちが他人だから成長が速く感じる、という意味ではない。そうじゃなくて、他学年の子たちが、中1から中3になった、というスピードに対して、あの子たちが高1から高3になったんだ、というスピードは圧倒的にゆっくりに感じるからだ。だから、あの子たちは「うちの子」という意味だと思う。

3年前にあの子たちと、出会ったときを思い返してみる。大学院を卒業して、1週間も経たないうちに私は、異例の配置で「担任」として教壇に立っていた。入学式、見慣れない名前を体育館のマイクで、呼ぶ声も、クラス懇談会で、保護者全員を前にしてこれから3年間のビジョンを語ったときの足元も、震えそうなのを押し殺して、まるで堂々としているかのように振る舞っていた。

あの子たちに、わたしが最初に教えたことは、まだ借りたばかりで荷物のあまりない寒々しいマンションの一室で、パソコンに向かって考えたクラス目標だと思う。
掲げたのは、「自分を愛すること」
思い返してみるとそれは、自分自身の中高6年間を振り返って「本当は教えてほしかったのに、一番教えてくれなかったこと」だった。学校では、他人の役に立つべきだ、ということしか教えてくれない。高校を卒業して、憧れの大学に入学した。だけど、そこで夢を選んだり、一緒に過ごす人を選んだり、そういう場面で、自分を愛せなくて、自分のことを大事にできなくて、無意味に傷つくこともとても多かった。だから、それを私は一番に教えた。
自分のことを決めるとき、何かを選ぶとき、自分のことを大事にできますように。まだ顔も知らないけれど、だけど自分を大事にできなくて、傷つく若者が1人でも減りますようにって、そう思った。

そして約束もした。
「どんな夢でも絶対、応援する」って。
だけど、今、振り返って、その約束を守れたか?自問自答すればするほど、不十分だったことしか溢れてこない。
もっと私がいろいろな世界をしていたら?
もっといろんな選択肢を与えられたら?
もっと、英語を好きにさせることができていたら?
もっと、もっとあの子たちが欲しい言葉をかけられていたら??

足りないことばっかりだったと思う。

私は自信満々な風を装っていたけれど。全員をまとめることも、英語を教えることも、本当は苦手な事務的な作業をすることも、連絡を伝えることも。
全てそつなくこなすことのできる、まるで風に乗ってやってきた、魔法使いのメアリー・ポピンズのようにふるまっていたけど。完璧にできたことなんてたったの一つもない。毎日が妥協と、そして反省の日々だった。

予想していないことも、たくさん起こった。あの子たちが、すっごく私を助けてくれた。
「先生」を思いやる?
自分のことでいっぱいいっぱいな年頃の子が?って疑ったけれど「先生、大丈夫?」って、何か手伝ってくれたのは、一度や二度じゃない。意見が衝突することもあった。まとめきれないこともあった。だけど、どんなことも、絶対に最後まで話し合った。そうすれば次の日は、笑顔で学校に来てくれる。あの頃の熱意が、まだ今の私にあるかと言われると、それは少し疑問だけれど、あの時寄り添った時間が、対話したことが、少しでも彼らの現在をつくってたらいいなって思う。

「自分を愛すること」、「夢を応援すること」。
そんな綺麗な言葉では乗り越えられない困難がある。文系にするか、理系にするか決めること、進路を考えること、科目を選択すること、成績を伸ばすこと、その中で、暗闇に入ってしまう瞬間もたくさんあった。手をかければかけるほどいいというわけではない。時には待つこと。暗中模索した。
「やりたい」ことと「できること」のギャップ。
自己の理想と、実力の乖離。そこは、わたしの掲げた「自分を愛すること」とはなかなか親和性がなかったように思う。「自分を高めること」は今の自分を否定することに近いからだ。だから、それを埋めるために、私が彼らを愛するべきだと思った。

私の施した授業や、助言や、対話が、無意味で、神経を逆なでたこともあったと思う。距離が離れていく子たちもいた。それでも、頼ってくるまで見守ろう、と思った。陽が落ちるのが速い時期になって、「本当にどうするか?」話しこむことも増えた。その時に、3年前からの成長を称えながら、厳しいことを言わなくちゃいけなくても、どうにか、あなたを応援してる、大好きだって、ひとりひとりに伝わりますように、ととにかく祈った

今。
入試の結果が分かる頃になって、悲喜交々がそこにはあった。少し前に、神社に行って絵馬にお願いを書こうとしたとき、「みんなが合格しますように。」そう書こうと思ってやめた。それは不可能なことだからだ。全員の席が用意されるわけではないのが、入試だ。だから「みんな素敵な進学先に恵まれますように。」って、そう書いた。

何よりも結果を求めていたあの子たちには言えなかったけど私は、
「受験を通して成長してほしい。不安を感じて、自己認識を考える。周囲の人に支えられていることを知る。自分の力を知る。可能なら、自分の力を称えてほしい。」そう思っていた。そんな高尚なことを思い浮かべてみても、結果が全てわかっているはずなのに、連絡の来ないあの子はどうしているだろうか、そのことでため息が出る。

今日スーパーで、安いしとりあえず買っておくかって、思って手を伸ばした納豆のパック。表示されていた日付は、あの子たちの卒業式の日だった。
その日に、「私は、あの子たちを失う」のだ。
笑顔とか、声とか、話してて楽しい時間とか、それだけじゃなくて、あの子たちを通してみていた世界、夢、将来。輝きでいっぱいの。それらを全て失うのだ。手から離れて、巣立っていく。教師という職業の醍醐味は、そういう形で「未来」を追体験できることだと思う。それが巣立っていくから、きっと計り知れない達成感に包まれるのだと思う。

そして、振るいにかけられて自信を失う子がいるはずだ。
その子たちにもう一度、「自分を愛すること」を教えたいって思うのだ。
そして、最後に伝えたいのは、私がずっと、彼らがそれを拒否しても、ずっと担任で、ずっと「少なくともわたしを愛してくれる人の1人」としているってこと


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