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コーヒー29:コーヒーの歴史(18世紀)

おはようございます。
今日も安定の寒さ、もはやこういうものだと割り切ってしまえば、「それはそれとして受け入れてやり過ごしましょう」と思える様になってきた。まぁ実際そうするしかないしね。

さて、昨日は人類がコーヒーを発見してから17世紀までの、「飲み物として」と「生産地として」の広がりを見てきた。今日は18世紀どのようにコーヒーが世界に広がっていったのかを順を追って見ていこう。

18世紀

コーヒーの苗木、ヨーロッパに渡り、そして南米へ

17世紀の終わり、1699年にオランダがコーヒーの木を持ち込み開始した、当時植民地だったインドネシア・ジャワ島の栽培。そして1706年には
現在のジャカルタ周辺で栽培されたコーヒー豆と共に、1本の苗木がオランダはアムステルダムのオランダ東インド会社経由で植物園に送られ、繁殖に成功する。この後コーヒーの木は1714年にオランダからフランスのルイ14世(ブルボン王朝の最盛期を築きヴェルサイユ宮殿を立てた)へと贈られる。

フランスから大西洋を渡って中米へ

カリブ海にあるフランス領マルティニーク島の歩兵大尉ガブリエル・マチュー・ド・クリューは、フランス本国に一時帰国した際、人々がコーヒーを飲んでいるのを見て、マルティニーク島にコーヒー栽培を伝えようと思い立つ。幸い彼はコネを利用してパリ植物園で栽培されている貴重なコーヒーの木の苗木を手に入れることに成功。
1723年、彼はこの苗木を携えて大西洋横断の航海に望む。しかし、当時の海洋航海は当然簡単な事ではない。クリューらはチュニス人の海賊やハリケーンに襲われたり、彼を妬む乗客に枝を折られたり。さらには途中で飲料水が乏しくなり、クリューは自分に割り当てられた僅かの水をコーヒーの木に注ぎ、枯れないよう細心の注意を払いながら、マルティニーク島に持ち込むことになんとか成功する。クリューがこうして大変な苦労と共に持ち込んだこの苗木が成長して生み出した種子が、アンティル諸島のみならず、西インド諸島、メキシコ湾沿岸各地のコーヒーの起源となった。

中米からブラジルへ

長い歴史から見るとこのクリューの快挙の直後、ポルトガル沿岸警備中尉フランシス・デ・メロ・パルヘッタにより、1727年にブラジルに初めてコーヒーの木が持ち込まれた。
彼はカリブ海の南、ブラジルの北に位置するフランス領ギアナの長官を訪問したとき、新しい飲み物であるコーヒーに目をつける。ギアナの首都カイエンヌのクロード・トルヴィエ フランス総督夫人と恋を育みつつあった彼はこの野望を彼女に打ち明ける。コーヒー国外持ち出し禁止の掟があるにもかかわらず、クロードは送別の晩餐会でコーヒーの苗木を忍ばせた花束を彼に送った。コーヒーの種子と苗木を入手して持ち出すことに成功したパルヘッタは、1000粒以上の種子と5本の苗木を持って、当時ポルトガル領だったアマゾン川河口のパラに帰任。その後、パラでは栽培が小規模ながら行われるようになり、次第にブラジル全土に広がっていく基盤となった。

翌1728年、クリューが干からびながらマルティニーク島に届けたコーヒーの木は、当時イギリス領だったジャマイカにも伝えられる。
当時のジャマイカ総督によって、ブルーマウンテンにも移植され、こちらも現在のジャマイカのコーヒー作りの礎となった。

アメリカでの紅茶離れ

1600年代初頭に北東のバージニア州に入植と共にコーヒーが入ってきた北アメリカでは、17世紀後半にコーヒー、ココア、紅茶が飲まれていた。この中、イギリスの紅茶の飲用習慣をそのまま引き継いで当時は紅茶の方が普及していた。
ところが、イギリスがコーヒー貿易の競争でオランダやフランスに敗北し、(インドやスリランカからの)紅茶貿易に切り換えたことにより情勢が一変。イギリスは「茶条令」の発布によってアメリカでの輸入紅茶を独占した上で、価格を釣り上げ重い税金をかけた。
これに怒ったアメリカの人々は、ボストンに停泊していたイギリスの東インド会社の船を襲い、積み込んであった紅茶をすべて海中に投げ捨てたのだ。これが世に言う、1773年に起こったボストン茶会事件。この事件を契機にアメリカはイギリスからの独立の気運を募らせ、同時に紅茶よりもコーヒーを好むようになっていく。

ヨーロッパ諸国のコーヒー利権にまつわる話はドイツでも。
当時、植民地を持っていなかったドイツにとってコーヒー消費量の増加は、一方的な通貨の海外流出となり、国際収支のバランスが悪化の一途を辿る。しかもドイツビールの生産量が減り、打撃を受け始めていた。そこで大のコーヒー好きだったプロシア(現ドイツ)のフレデリック大王は自分の好みを押さえてビールを飲むように奨励し、コーヒーに重税をかけました。しかし、それでもコーヒー愛好者が減らなかったため、1781年には王室以外でのコーヒーの焙煎を禁止、貴族・司祭・将官といった上流階級のみがコーヒーを独占することとなり、王室は莫大な利益を挙げた。

コーヒーが世界中で根付き、それ故に大きな産業となってさまざまな思惑が蠢いた時代、それがコーヒーの18世紀と言えるだろう。


*上記の情報は以下のリンクからまとめています。

https://www.ucc.co.jp/enjoy/encyclopedia/history/index.html

18世紀に原産地の中東からではなく、アジア経由でヨーロッパに伝わり、そこからフランス人クリューが、命懸けで現在ではコーヒーの一大生産地となった中南米へ持ち込む。
そこからさらにコーヒーの魅力に取り憑かれた人たちが各地へとコーヒーの生産が広がっていく。その情熱のリレーに胸が熱くなる一方で、クリューを妬んでコーヒーの枝を折った乗客には「おいおい、何してくれてるのよ」とツッコミたくなる笑
コーヒーの生産の30%を占めるブラジルを筆頭に、コロンビア(6%)、ホンジュラス(4%)、ペルー(4%)、グアテマラ(2%)が続き、今や世界のコーヒーの半分を作っている中南米の歴史は、すべてクリューのお陰。僕らが毎日コーヒーを飲めているのも彼のお陰だ。彼自身もこうなると予想して、死にそうになりながら運んだ訳ではないだろうけど、この歴史を知った以上は今日くらい彼に感謝してコーヒーを(文字通り)戴きたい。


僕は幸せになると決めた。
今日もきっといい日になる。
一歩一歩、着実に歩もう。


皆様も、良い一日を。


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