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信頼と自己開示

先日、日常を共有できる居場所について話をしていたら、それは自分がどこまで相手を信頼して自己開示できるかなのではないかと言われたことがあった。
なるほどそうかもしれない、嚙み砕いてみて、そう感じた。
その一方で、その定義を当てはめてしまうと、自分のこれまで持っていたものを取り戻せたところで何も残らないように思えてしまった。

久しぶりに会う相手やあまり会えない相手と時間を共に過ごす時、「楽しい時間」にしなくてはと感じる。
「日常」を共有しているようなたくさん会える関係性では今はない相手と過ごす「特別」な時間だから、それがいいものになるように、綺麗な思い出になるように、そんな思いが前面にくる。
そうしたいし、そうありたい。
「楽しい時間」を形にすることが、日常を共有しているわけではない相手と過ごす時間の正解だと信じていた。

でもそれは正しいのだろうかと、思うような瞬間も出てきた。

大好きな同期と過ごす「特別」な時間、うつになる直前くらいにあったその機会に、私は自分の辛さを少しだけ話すことはしたけれど、一言以上そのことについて話そうとすると涙が止まらなくなることもわかっていたから、触れられないように、この場が「楽しい時間」としての役割を失ってしまわないように、自分に関する話題を徹底的に避けようとしてそれに成功した。
その3ヵ月後、会う前にうつで休職していることを伝えていた中でまた同期と会う時間があって、その時にはボロボロになってしまいながらも信頼できる友達に聞いてもらって、「楽しい時間」だけで完成させることはできなかったけれど、みんなとそういう話ができて少し救われた気がした。

思えば、日常を共有するわけではないシーンで、みんなが楽しい話題だけをするわけではない。
楽しいだけの場は表面的で、本当に話したいことには触れられないのかもしれない。
私が「楽しい時間」を形にしようとしていた場面でも、楽しくない話題だってたくさんトピックとして出現している。

仕事の辛いことを話したり、家での問題を話したり、悩んでいる状況についての話をしたり、そんなことは特別な「楽しい時間」を壊してしまうから、日常を共有している人としかすべきでないと思っていた。
だけど、そうではないのかもしれない。
日常を共有していない人とでも、「楽しい時間」を守り抜いてつくりあげようと躍起にならなくていいのかもしれない。

「信頼して自己開示する」
自分に当てはめて考えてしまうとそれは果てしないように思えてしまっても、それが他者だったら、あまり会えない相手でも自分のことを信頼して自己開示してくれたら、それはそれで嬉しいし力になりたいと思う。

バランスはやっぱり必要だけど、居場所感を得るコミュニティに"日常を共有できる"という前提は、きっと十分条件ではあっても必要条件ではないのだろう。

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