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【成人式後】今を生きるということ②

こんにちは、ゆもです!
今回は前回の続きから。

というか、前回の記事で成人式前に続編を書くと宣言しているのに、結局後になってしまった。。。相変わらずの遅延ですね。そして内容も若干異なる(笑)


弁解というわけではないが、書こうとしていた当初のメモを載っけとく。

今を生きるとは(続)

黒が今を生きる提案
赤がその背反

この時、成人式を前にどうやったら今を生きれるか悶々としてた。だが後になって思うのは、自分が成人式という節目を前に、自分はこれまでやるべきことを一生懸命生きてきただろうかと問うてたんだろうと感じる。不安だったんだね。


結果的に過去の思い出を完璧なものにしすぎないという工夫をしようという結論に至ったわけだが、もうひとつ思うこと、上記のメモでいう2番目の提案の補足をちょっぴりする。

本能的に生きる

2番目では、今を生きるには肉体的な快楽や痛みに任せればいいのではという提案をしている。すなわち、いま肉体を通じて感じる心地いいもの、痛かったり苦しかったりするものに集中して生きてればいいのではというものだ。
本能と言えばいいのか、動物が痛いのを避け快楽や利益となるものを選択するように、肉体的に楽しいと感じる物事を日々行なっていれば、過去や未来に圧迫されずに時間を見出せるのではないか。

人間の自傷行為について

でも快だけで考えられないのが人間の生であると思う。というのも、これを考えてた時に人間が行う自傷行為についても考えていた。人間はまれに自身の肉体を傷つけることがある。これは動物はしないことだよね。人間は心地いいものだけ選択せず痛いことや苦しいことも進んでする場合がある。善とかそういうやつね。
これにはやはり、人間が社会的動物だからという理由に尽きないと思うわけだが、もうひとつ思っていたのは、障害児の自傷行為について。

自傷行為というとリストカットとかが先に思いつくわけだが、いわゆる障害を持った人間が頭を壁にぶつけたり体をかきむしったりする自傷行為があるでしょう。

私はその症例についてプロではないし、あくまでも自身の独断意見であるが、あれって自分という輪郭を再確認したいという試みなんじゃないかなあって思うんだよね。外からの感覚や情報を敏感に受け入れすぎて、パニックになった時の対処法みたいな。あれもある意味で今を見失った、今いる自分を見失った時に今を生きようとする行動だと私は思っているのね。今度これについてはゆっくり話そうと思う。

動物的生と人間的生

とにかく、私が言いたったのは人間は気持ちいことばかりでは生きていけず、嫌なことにも我慢しなければならないということ。肉体的な快楽だけではなく、精神的な快楽も持っている。こんなに感情豊かで、そしてそれをアートや言葉や仕草で表現できる生き物は人間の個性。ということは、野生に生きる動物とは異なる人間らしい生き方っていうのも存在するんじゃなかろうか。

っていう悶々な考えの補足でした(笑)
またのんびり呟きますね☺️


成人式に行ってきたよ!

まあとりあえず、自分は無事に成人式を迎えたわけです。
ひっさしぶりに会う友達や先生なんかにいちいち感動して、場の特別感や幸福感に浸りました。そんな中でコミュニティについてまた考えて、学校の社会的役割を考えた。今回はそれを紹介して終わろうと思う。

再会して思ったみんな違う感

成人式

こうやって同じ地域で育った同世代が、数年後成人式という時間を一緒に過ごしたわけです。改めて思ったのがみんなが違うということ。みんながそれぞれを生きて、それぞれの空間で私が知らないことを経験してきたんだろうなって感じた。中学校が一緒だったというような共通点がなければ知り合いもしなかったような子とも再会したわけです。

再認識する学校の特異な空間

そこで改めてしみじみしたのが、学校って本当に特別で面白い空間なんだなあっていうこと。同い年の子どもが同じ空間に集められて決められた時間をともに過ごす。当たり前のようで、実は非常に異質な人間らしい学校という制度。
考えていたのが下記のようなイメージ。

きったないイメージメモ(笑)

なんかこう、それぞれが家族や近隣といった異なるコミュニティのまるの中から集め出されるイメージ。まる同士が元々重なり合っている場合もあるが、大抵はお互いを認識しないまま一生を終える。それが学校という空間で同じ時間を共有することを強要される。空間の中では異なる環境や価値観を持つでこぼこな子どもたちが仲良くなったり喧嘩したりとコミュニケーションを繰り返す。
それが成長して学校を卒業すると、自身が本来持つ同じコミュニティのまるの元で大人になる子もいれば、新しい既存のまるに足を踏み入れたり、あるいは全く新しいまるを造ったりする。すんごく抽象的なイメージだから説明しづらいけど、なんかすごくこんなことを考えさせられたんだよね。
もっといい説明やひらめきがあったら補足しよう(^-^)

社会のエネルギー構築論

私がイメージしてるものにリンクしているのが、この下記の理科の教科書で見たことあるであろう物質の図説のやつ。
教科書のまるは粒子を表してるけど、私はコミュニティも粒子みたいにこんな感じで動いて存在してるんじゃないかなって思う。

当時の中1の教科書からの引用(笑)

で、社会というのはそのコミュニティが動くエネルギーで構築されているんじゃないかっていうのが私論なのね(笑)それぞれの丸が動くことで発されている遠心力みたいなエネルギー。だからここでいう物質のすがたが、社会のすがたを表す。
これが先述したみたいに、コミュニティ内の人間が学校というような公的空間などを利用して移動したり新しいものができたりするから、社会も変動するんじゃないかっていう客観視なのね。

別にこの考えは何かの先人を参考にしたり批判したりして言ってるものではないから、隙だらけでツッコミどころ満載だと思う(笑)
でもここでは成人式の当時の感想として、呟いて残しておこうと思う。


八方美人なわたし

でね、私がもうひとつ感じたのがこんなことを考えてる自分の立場について。
私はいま社会が一体何でコミュニティってなんなんだってもやもやしてる。そしてできる限りその実態のかたちの全貌を客観視したいと考えてるわけ。

なので今の私を上記の粒子図で例えるなら、どのまるにもできる限り属さず動き回っているイメージなのね。自分がこれからどのまるで生きるべきなのか、検討している

余談だが、少し前に友達と占いに行った時に占い師に「お前は八方美人」だって言われたことがあるのね。みんなにいい顔する奴ってわけ。

なんでこの余談をしたかというと、私はできる限り多くのグループやコミュニティを視察して客観視したいと試みてるのね。ひとつの価値観に縛られたくないし、みんなに幸せになってほしいし、知らないって状態が嫌い。それが八方美人という四字熟語の意味合いに似てるなあと思い出されたため(笑)

どのコミュニティにも片足ずつっていうのはすごく不安定
でも実際に足を踏み入れて感じることは本当に多い。これが私が何かに挑戦したり、旅をしたいなって思う原点だと思う
いずれはどっかに根を下ろして生きていくんだと思う。
でも今だけは、もう少しこの不安定な状態を楽しみたいと感じた。

あとより多くのまるのコミュニティを見るという点については、本を読むことが近道だと感じる。所詮実際に私が一生のうちに足を運べる場所というのは限られているからな。

どうもみなさんありがとう

長くなった。
そしてあまりにも抽象的で私的で中途半端な投稿になってしまった(笑)

まあでもいいや。
成人式、とっても楽しかったんだよ。
今後とも精進して参ります。

読んでくださってどうもありがとうございました!!!
またの呟きをお楽しみに(笑)
〜終〜

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