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肩書きってそんなに大切ですか?

世の中には色々な肩書きがある。経営者とか教師とか風俗嬢とかホストとかホームレスとか。どのどれもが、どうでもいいなあと思う。その人の人間性は、肩書きなんかでは分からないから。

人は見た目が9割とも言われる。それも、自分にとっては心底どうでもいい。自分自身が、見た目に沿った行き方をしていないから。そして、世の中には仮面を張り付けて生きている人も多いから。見た目だけじゃ、本当のその人なんて見えてこない。

誰かの「肩書き」に触れると、ふと思い出す記憶がある。心が完全に死んでいた19歳の頃、飛び込んだ心療内科で臨床心理士からこんな質問をされた。

「あなたみたいな先天性心疾患の人って、どうして生きていられるの?」

まるで自分が欠陥品のような気持ちになった。不良品なのにどうして生きていられるのか不思議だと言わんばかりの顔を相手が向けてきたから。
「そういう言葉って、失礼じゃないですか?」―そう、相手に吐きだすのが精いっぱいの抵抗だった。

それでも相手はニヤニヤしながら、私に語りかける。会話を楽しむかのように。
「だって、心臓が片方しかないんでしょ?どうやって生きていられるのか不思議でたまらない」

さすがに苦しくなって、辛くなって診療室で声を荒げた。
「そんな言い方は、さすがにないんじゃないですか?」と。

すると、相手はそういうときだけ「臨床心理士」の肩書きを活かす。
「そういう風に頑固な一面があるって、先ほど受けてもらった心理テストでも出ているから、直したほうがいいよ。僕だったら、そういう女性と付き合うのはイヤだから、彼氏も大変だと思ってるんじゃない?」と。

「肩書き」なんて、くそくらえ。「診察」とかこつければ、どんなことでも行っていいのか。「診断」だと言い訳ができれば、どんなに心を傷つけても許されるのか。

肩書きを身にまとって、もっともらしく振舞っていても、その人の人間性なんて職業じゃ分からない。見た目でも分からない。だったら私は、肩書きに振り回されない大人になろう。それは19の夏に、自分と誓った約束。

大人になるにつれて、肩書きは重視されていく。日本は目で見える資格を重視したがる国だからこそ、余計に肩書きが重要視されている。

けれど、どんな人間も元を辿れば小さな子どもだったはず。価値観の相違で分かり合えないことは絶対にあるけれど、分かろうとする努力や知りたいと思う心は失いたくない。肩書きや性善説、性悪説を超えて、目の前の相手のことを知りたいと、ひたすらに思う。

肩書きを壁と取るか、その人の個性のひとつと取るかは自分次第なんだろう。

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