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書評 #76|色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 思うことが多々ある。光と影。白と黒。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に限らず、村上春樹の作品には対立が存在する。しかし、それは二分しながらも、同時に一つの何かを作っていたりもする。表裏一体。淡々と紡がれる文章は流麗だ。しかし、そこには血生臭い生命力も感じてやまない。生活感の有無の共存と表現すると平易に聞こえるが、そんな印象だ。

 多崎つくるとその仲間たちが作った共同体は社会における個人の写し鏡ではないか。乱れなく調和する親密な場所は美しくも、どこか不自然で脆さを感じさせる。周囲や社会が求める理想像を演じることを各人の色が象徴し、主人公の無色性がそこに均衡をもたらしていたのか。無自覚ではあるが、その無色性によって得たものと失ったものがあるということも、人が生きることの複雑さや深さを表現しているように映る。

 人もまた脆くもあり、強くもある。物理的な暴力もあれば、精神的な暴力も描かれる。生の不条理さとも呼べるか。帰るべき場所があり、行くべき場所もある。そして、その中間地点も。多崎つくるは巡礼する。彼が共同体から切り離された理由を見つけるために。東京、名古屋、ヘルシンキ。三つの物理的支点と心に宿す精神的支点。陳腐に聞こえるが、それは自分探しの旅であり、自我と向き合うこと、自我と向き合うことを受け入れることの比喩と捉えた。

 色彩とは何か。色彩を持たない多崎つくるは最終的に愛という名の色を見つけた。自身と世界との間の均衡を保つ透明性を投げ打ってでも得たい自我だ。シロはユズ、クロはエリへと色彩からの脱却は喪失でもあり、内なる情熱との邂逅でもあった。アカとアオは濃淡はあれど、マジョリティを代弁する、社会への適応を果たした物語と言えるか。

 社会における個人の自由。そんな言葉も頭に浮かぶ。同じ一つの作品ではあるが、同時にそれぞれの読者への響き方、換言すれば多様な記憶の呼び覚まし方を持っている。


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