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刺繍

「早く死ねばいいのに」祖母と喧嘩をした晩、この台詞がいつも胸の中で呟く。こんな風に思ってはいけない。言ってはいけない。分かっていてもいつだって、この台詞が繰り返されてしまう。言葉がいつも喉元まで上がってきては、慌てて飲み込む。一日中、家の中でテレビを見ている祖母が疎ましく感じてしてしまう。私と父方の祖母は51才の年の差がある。価値観はまるで違う。話しをしても分かってもらえない、伝わらない。そんなもどかしさが常にあった。

小学生の時に母が自死して以来、祖母が家に度々来ては家事をしてくれた。母親代わりになろうとする祖母が痛々しくて、虚しく見えた。参観日や学校行事にまで参加しようとしてくる祖母の事が嫌で堪らなかった。
高校に入学した頃、学校の説明会があった。父親がどうしても仕事が休めなくなり、祖母が来た。新しい制服にローファー。その横に祖母がいる。何故だか、とても恥ずかしくて誰にも見られたくなかった。
私が掃除したゴミ袋を漁り、まだ着られるからと捨てた服を拾ってくる。勝手に人の部屋に入り、模様替えまでしてしまう。心配症で疑い深くて、いつも余計な事を言ってくる。思春期の頃はお節介な祖母が大嫌いだった。気性の激しい2人は大喧嘩をしては罵り合っていた。
「私の母親はあんたじゃない。だから余計な世話をしないで」
いつだって、そう思っていた。

醜く太った祖母が大嫌いで恨んでいた。祖母に対する憎しみのようなものが何年も私の中から消えてはくれなかった。私は母親が自死した事を、どこかで祖母のせいにしていた。どこにもぶつけらない悲しみを誰かのせいにしたかったのだろう。

2年前の7月、早朝に父の部屋からドスンッと物凄い音がした。祖母がすぐに2階の部屋に駆け上がった。私もすぐに見に行った。父がベッドの前で倒れている。祖母が何度も父の名を呼ぶ。父はグーグーとイビキのような異様な呼吸をしているだけで目を覚さない。すぐに救急車を呼び、病院に運ばれた。医者の説明によれば、くも膜下出血になり脳の神経が破裂してしまったらしい。植物状態になり沢山の管に繋がれて入院する事になった。熱中症になりそうな程、暑い毎日。祖母と2人で毎日、病院に向かった。父の手を握ったり話しかけたり、賢明に2人で祈り続けた。しかし祖母は、もう助からないのは分かっている、そう言って父が死ぬのを待っているようだった。そして2週間後、本当に呆気なく亡くなってしまった。あんなにも覚悟を決めて強がっていた祖母がその時、大声を出して子供みたいに泣きじゃくっていた。祖母が泣いているのを初めて見た。

父が亡くなり1年程経った頃、父の部屋を整理していた。父の荷物をそろそろ捨てようとすると、まだ置いておいて欲しいと祖母が嫌がった。私は父の部屋はそのままにしておく事に決めた。父が亡くなって2年が経った。ようやく祖母が父の荷物を捨て出した。何かが吹っ切れたように、ついでに自分の荷物も沢山捨て出した。何十年と溜め込んだ荷物が押入れから出てくる。祖母は昔、刺繍を40年も習っていた。祖母が縫った刺繍の作品が沢山出てきた。真っ白の布に着物を着た女の人や、蝶々、鶴、色々な刺繍がしてある。まるで絵のようだ。鍵あみで編んだ鞄に民族調の模様が施してある物もある。立体感があり、とても繊細で思わず見惚れてしまった。その時初めて祖母の綺麗な心を、垣間見たような気がした。
「おばあちゃん、凄い上手やな。またやればいいのに」
私が言うと「おばちゃんな、あんたのお母さんが亡くなってから何も出来なくなってん」
と、笑いながら言った。祖母も母が亡くなり十分に傷ついていた。私だけじゃなかった。そして祖母のせいなんかじゃなかった。

祖母は最近、マスク作りにはまっている。使わなくなったハンカチで毎日マスクを縫っている。腰を曲げて老眼鏡をはめて、夜中まで縫い物に夢中になっている。祖母は今年84歳になる。

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