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【今でしょ!note#10】 1946-50年 廃墟からの再建 (経済白書から現代史を学ぶ その1)

おはようございます。林でございます。

近年、円安・物価高・欧米諸国のインフレ&金利引き上げなど、経済面で色々な変化があります。

このような世の中を少しでもドラマチックに、まるで大河ドラマの中に生きているかのような実感を、ということで、現代史、つまり第二次世界大戦以降の日本について、経済白書をもとに解説された良書があるのでご紹介します。

きっかけは、2年前に木下斉さんがこの本を分かりやすく解説されていて、めちゃくちゃ面白い!と感じたことです。

経済白書は、戦後毎年発行されており、労働市場・金融政策の内容を発表しているため、その年の出来事が総括されています。当時政府としてやりたかったことも見えてきて、時系列で見ていくとストーリーが繋がって面白いです。

本書では、1946年〜2000年までの経済白書の内容が整理されています。
ボリュームもあり全てを一気に取り上げるのは大変なので、これから連載版として5年ごとに取り上げます。
現在の生活に直結する社会基盤・制度・経済モデルは、戦後に樹立しているものが多いので、現代の社会の仕組みの背景について解像度を上げてみることができます。


1946〜50年の概観

戦後にあたる1945~50年の日本は、経済ボロボロ、財政めちゃくちゃ、国際収支は大赤字、国内はハイパーインフレという、今では大変想像し難い時代でした。
それでもたった70年前の出来事で、今も生きている人たちが実際に体験している時代でもあります。

財政、企業会計、家計のすべてが赤字で、闇市場だけが儲かっている状態。日本は戦争に負けたことで、大日本帝国として領土主張していた台湾、朝鮮半島、満州国を含む土地の44%を失いました。
戦後、これら領土から約600万人(=本土人口7,500万人程度の1割に相当)が本土に引き上げてきたため、深刻な物資不足に陥ります。
そもそも、元々の国土では石炭などの資源・食糧が不足するため、外に出て資源獲得に動いた経緯があります。

空襲などで失った非軍事部門の戦争被害は4.2兆円(現在価値で言うと約80兆円)に上り、「経済の体温計」と呼ばれている消費者物価指数は、約20倍に上昇しました。

家は、戦災で210万戸消失し、慢性的に400万戸の住宅不足に陥ります。空き家が849万戸(2018年時点)に上っている今では考えられません。当時の強烈な住宅不足を受け、家をたくさん作ることを正義とした日本の政策が行き過ぎた結果が、現在の空き家問題に繋がっています。


ハイパーインフレ対策「新円切替」

物資がないので、当然インフレになります。
陸海軍人の復員手当、失業手当、軍事工場の債務、利払債務支払も戦後4ヶ月に集中し、市中にお金が一気に出ていきました。
企業も、日銀借入を原資とした運転資金の調達をしたため、日本銀行券も市中に出ていきます。
これらにより、市中に流れる資金量が膨大になり、ハイパーインフレとなりました。

さらに、1945年は凶作で、46年は闇市が大繁盛しました。
当時は国が食糧を配給していましたが、地方の農家にとっては闇に流したほうが儲かるので、国に米が集まらなくなりました。
46年上期には、東京都の配給が機能しなくなり遅配・欠配が続き、メーデーには「米よこせ運動」が起こる等しましたが、GHQによる輸入食糧が支給され、どうにか社会不安の抑止が図られていました。
当時の人々は、戦災から免れた着物を売って食糧を確保する「たけのこ生活」を営み、生活所得の12〜17%が過去の衣服を売って賄われていました。

1946〜48年は、卸売物価指数・消費者物価指数ともに深刻な物価上昇を続け、46年に10円だったものは49年には200円に跳ね上がる状況でした。
そんな中、日本政府(幣原内閣)は、「新円切替」政策を取ります。
これは、市中に流れ過ぎてハイパーインフレを起こしていた旧円について、「今後使えなくなるので銀行に預けてください」と言い半ば強制的に預金封鎖をし、生活費・事業費の基準を満たしたものだけ、新円の形で引き出せるというものです。
当時の月給生活者は、月に上限500円しか引き出せなくなりましたが、当時闇米は1.5Kgで68円だったので、米を10Kg買ったら月給がなくなってしまうという状況でした。

財閥解体・農地改革・傾斜生産方式

46年までは、日本の戦争遂行能力を破壊するのがアメリカの占領政策の基本でした。そのため、財閥解体・農地改革をし、それまでの大地主をなくして、小作人に土地を与えていくという労働民主化を行います。

日本が戦争が出来た理由の一つとして、財閥経済という国家と一体化した大企業があらゆる産業に入り込んでおり、また大地主の権限も大きかったことが挙げられます。そのためGHQは、財閥解体・公職追放を進めました。
財閥の役員が要職から外されていったことで新興企業が出来やすくなり、財閥企業の役員は、一気に若返りしました。

1947年に入ると、日本史の教科書でも出てくる「傾斜生産方式」が取られます。エネルギーを安定的に拡大再生産していかないと、鉱工業が発展しない、との考えで、鉄鋼・石炭の生産回復に資金を集中させました。

46年は豊作で米の生産目標は達成できましたが、食料品などの日用品は慢性的に不足していました。
貿易は、5億ドルのマイナスで、外国からの援助でどうにか支えている状況でした。ただし援助と言っても、飢餓対策・疾病対策で68%を占めていたので、経済復興に真に必要な資金を外国支援でもらうことはほぼできませんでした。

ドッジラインによるインフレ抑制

48年に入ると、生産の改善は続き、新円切り替えの効果も出てインフレも落ち着き始めます。一方で、アメリカへの援助依存は続き、貿易収支は赤字、企業財務もまだまだ悪く、税負担も厳しい状況でした。
そんな中、対日賠償軽減化、企業への制限緩和、経済復興援助基金を設けて、アメリカが日本への支援拡大に動き、風向きが変わってきます。
背景には、米ソ対立が深刻化し、いわゆる「トルーマン・ドクトリン」と呼ばれる共産主義封じ込め政策が進んだことがあります。元々は日本の戦争能力の破壊がGHQの取り組みでしたが、ソ連への対抗地域として日本を使うため、西側諸国への取り込みと、経済復興の加速化を図る方向に変わっていきました。

49年の財政金融引き締め政策のドッジラインでは、デトロイト銀行頭取の自由主義者であるドッジさんが、政府による補助金・復興金融公庫を停止させ、国内消費を抑止し、デフレを推進しました。
また同年、当時1ドル110円〜900円の振れ幅で変動していた為替相場を、1ドル360円で固定しました。
ドッジラインによりインフレは完全に止まり、副作用として強烈なデフレがやってきました。結果、物価が上がり、賃金も上がるというサイクルがなくなりました。

朝鮮戦争勃発

1950年には、米ソ対立の代理戦争となる朝鮮戦争が勃発し、一気に生産・輸出が拡大します。
輸出が増えて特需が起きたことで、生産・雇用・生活水準が劇的に改善されました。特に、繊維・機械・金属・木材は、金額ベースで60〜90%の割合で上昇しました。

海外から発注がきて、入ってきた外貨で自分たちの生産が拡大し、生活に必要な賃金が支払われるようになります。50年10月には、公共業・生産活動の基盤が回復基調に乗り、朝鮮戦争特需で経済復興を果たしました。

企業経営においても、ずっと赤字だった自動車・石炭部門も大幅に黒字転換し、軍服用の化学繊維の利益率も急騰します。雇用は金属・機械から増大して、51年には全産業で雇用が一気に増加、賃金も前年度比20%上昇しました。

このように、経済白書を見ると、当時の生活の様相、企業の奮闘、政府の政策担当者の苦悩が見えてきます。
国内の物資不足、財政難、企業の赤字会計を抱え、アメリカの方針転換に翻弄されながら、復興に知恵を絞る現役世代の人がいたということがよく分かります。

次回は、51~55年の間に起きた新たな問題に対して、当時の人がどのように立ち向かっていったのか、という点に触れていきます。

それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
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