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子どもを産み育てながら働き方を変えていった話

猫をこよなく愛しているのに猫アレルギーになってしまったYUZUKOです。

今回は、両親の介護をしながら2児を産んでも働き続けている私の働き方を綴っていきたいと思います。

私は独身時代、都内の小児科で看護師としてバリバリ働いていました。

保健師の資格も取りましたが、どうしても小児救急認定看護師になりたかった私は、迷わず大学院の費用と勉強中の給与保証のある病院を選んで飛び込みました。

しかし、夢と同時に当時付き合っていたパートナー(現旦那)との結婚や、自分の子どもが欲しいとも強く考えていました。

勤務していた病院は学ぶのには適していましたが、結婚妊娠出産には全く適していない病院だったため、ふたつの夢を同時に叶える事はかなり難しい状況でした。

女性には妊娠出産に適した年齢があり、早すぎても遅すぎても大変になります。

先に結婚して子どもを産むべきか、それとも小児救急の認定を受けてから考えるべきか...

過労死ラインを余裕で超えた激務の中、そんなことを悩みに悩んでいたら「自律神経失調症」となり、そのタイミングで流産したことで、妊娠していた事実を知ると同時に失った事実にも直面します。

激務な中で働く看護師は、流産してしまう方がたくさんいます。

働いていた病院でも流産してしまうのはよくある話、にされるレベルでした。

仕事を続けている限り落ち込んでいる時間などなく、がむしゃらに働き続けていると、なかなか結婚しない私達に腹を立てたパートナーの両親から、私の仕事に対してかなり踏み込んだ干渉をされたストレスで「うつ病」を発症してしまいました。

体調を崩したことで、院内での認定看護師支援リストからは除外されたため、退職を決めました。

しかし、流産直後でも、うつ病であっても、生活費は必要です。

退職した翌日からは、近くの皮膚科クリニックで働き始めました。

本当は失業保険で、働かなくても月に20万円を1年間貰えたのですが、実家への仕送りや当時フラフラしていたパートナーを養うためには足りなかったのです。

勿体なかったですが、失業手当は1円も受け取らずに働くことを選びました。

クリニックは幸い夜勤がなかったので、生活リズムを徹底的に整えてうつ病を早々に治しました。

体調も仕事も落ち着いてきたタイミングで第一子を妊娠し、認定看護師にはなれなかったけれど...これから看護師の仕事と育児を両立させながら楽しい家庭を築いていこう!とワクワクしていた矢先に事件は起こります。

実母がくも膜下出血で倒れたと連絡があり、急いで実家のある東北の病院へ身重で悪阻の辛い身体にムチ打ってかけつけました。

そこで執刀医から「手術は成功しましたが、重篤な後遺症が残る可能性が高いです。また、最悪の事態も考えられるので覚悟しておいてください。」と告げられました。

母の状態などが色々割愛されているのは、私が看護師であることと、2人いる妹のうち1人は薬学部の6年生、もう1人は看護大学の2年生だったためです。

元々私の両親には生まれつき障害があり、母は身体障害2級、父は6級の認定を受けています。

元から重い身体障害を持ちながらのくも膜下出血だったので、今後寝たきりはほぼ確定でした。

妹たちはまだ大学生、父は先天性疾患に加えて認知症とうつ病があり、もはや地元に帰って同居した方が良いだろう...と旦那と共に判断し、義両親にもその旨を伝えて実家に引っ越しました。

農業を営んでいる義実家には長男夫婦とその子どもが2人いたのですが、生活費も人手も足りないらしく、私の実家ではなく、義実家に同居して農業を手伝って生活費も入れろ!と大反対されて、弁護士を介して距離を置く事態になったのですが...今回は省きます(苦笑)

地元に引っ越す前に長男を無事に出産し、引っ越してきてすぐに地元の病院で働き始めます。

息子を育てるにも両親の医療にもお金がかかる上に、妹達がまだ大学生だったため、私しか頑張れない!と思っての行動でした。

私は働かないという選択肢を選べずに、産後の不安定な時期に無理を重ねたことで再び体調を崩し、産後うつ病を発症してしまいました。

産後うつ病は思っていたよりも辛く、夜は眠れない、ご飯も食べられない、トイレにも行けない...まさに寝たきり状態です。

両親の介護や、せっかく産んだ我が子のお世話どころか自分のことも出来なくなり、また退職することになってしまいました。

病気とはいえ、使えない自分をひたすら責めました。

周りからも「病気のフリして働かないなんて、逆にお荷物だ」と責められ、とても辛い療養期間を過ごしました。

どん底でしたが、諦めの悪い私は今の状況での外勤は効率が悪いと考え、在宅で働く方法を模索します。

幸い工業高校の教師だった父の影響で、家にはデスクトップPC、ノートPC等々が10台以上あり、インターネットが普及する前の物心ついた時(2-3歳)からPCを使っていたため、文章作成やHP制作、グーグルアドセンスなどの広告収入を積み上げてキャッシュフローを確立させて、個人事業主として開業しました。

加えて、思春期には高橋留美子先生の犬夜叉という作品にハマり、フォトショップなどでお絵描きもしていて、同人誌即売会にサークル参加をしていた経験があります。

イラスト制作や画像編集もできたので、時間を見つけては画像の仕事も受けてこなしました。

これなら私は無職でも無収入でもないし、自宅で育児も介護も家事もできるため、何の問題もないと思ったのです。

しかし、人生そう思い通りにはいかず...看護師の資格を取得させたのに看護師として働いていない、変なインターネットの事業を立ち上げて詐欺でも働いているんだろうと思われて田舎特有の村八分に合いました。

昔の人は、インターネットもPCもよく分かりません。

そこで、分かりやすい物販を新たな事業に加えてさらに収入を得ますが、それでも「看護師の仕事をしない親不孝者」として周囲からはよく思われませんでした。

そうこうしているうちに第二子を妊娠出産しますが、妊娠中から重篤な悪阻や切迫早産になり、産後の回復も遅くて仕事をこなしきれなくなってきたため、一旦仕事をセーブして旦那の扶養に入り、半年くらい療養しました。

それまでの仕事は、作業量と収入がセットになっていたため、作業ができなくなると収入も落ちてしまう現実を突き付けられました。

それをカバーするために事業の外注化を図りますが外注さん達との連携がうまくいかず、誰かに仕事の一部を託すことの難しさを痛感しました。

そこで、人間ではないFXの自動売買に着目して、バックデータなどが多く、作者のレスポンスが早い海外のEAを導入し、自動で利益を得ました。

ただ、自動で利益は得られるものの、トレードの知識がなかったため、漠然とした不安を感じてトレードについて調べました...が、情報量が多く、難しく、独学では厳しいと感じて、基礎から教えていただける方を探して頼み込み、現在学び中です。

今後は私が倒れてもいなくなっても家庭に充分な収入が入るような仕組みを確立させることが目標になっています。

金銭的にも時間的にも余裕があった方が、子どもたちにとって良い環境が作れそうですよね。

起承転結のない私の話を最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

伝えたい事は、外で働く以外の働き方が今は無数に存在する、ということです。

病気しても、妊娠中でも、やりたい仕事を見つけて働くことができるのです。

もちろん、働き方や家庭運営の舵を握るのはみなさま自身です。

みなさまの幸せを願って綴りました。

ありがとうございますm(__)m

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