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「ネフェルティティの胸像を返して!」 エジプト国王のベルリンとイギリス訪問(1927)

 「エジプトの輪舞(ロンド)」で少しだけ触れたのですが、1927年に(ドイツが不当に持ち去った)「ネフェルティティの胸像」の返還を求めて、当時のエジプト国王(ファルークの父親)がベルリンに乗り出しました。
 ここまで盛大におもてなしをしておいて返さなかったという、その時のベルリンの写真です。

  ネフェルティティの胸像とはツタンカーメンの黄金のマスクとギザのピラミッドと並ぶ古代エジプト三大代表作品です。
 1895年からカイロに住んでいたドイツ人考古学者ルードヴィッヒ・ボルヒャルトが1912年発見し、「あ、これはみっけもの」とザマレック地区の自宅に持ち帰りそのまま誤魔化してドイツに持ち去りました。
 それが発覚すると、「返せ返せない」の国際問題に発展します。ドイツが返却を拒んだ背景に、ネフェルティティの胸像があまりにも素晴らしいので手放したくなかったというだけではなく、当時のエジプトの考古学の世界ではライバルのイギリスが顔を利かせ、エジプトの骨董品保護局を運営するのが英仏である反感もあったからではないかと推測されています。

ドイツはここまで盛大にエジプト国王を歓迎したのかと、度肝を抜かれました。よほどネフェルティティの胸像を返したくなかったのでしょう。なんとかエジプト国王を良い気持ちにさせ懐柔しようと考えたのでないかと…。
スマホを持って撮影する未来人がいないか、本気で探しました。
こんなにも軍隊を出したことに驚きました、次の訪問先ロンドンもここまでではなかったのに。
1927年当時のエジプト国旗
群衆の服装がバシッとしていることに、この都市の人々の生活水準とか諸々私は想像しました。
ベルリンオペラ座もドイツ首相と一緒に観劇。ファードは妻のナズリ王妃は同行させていません。なお外では女性がヴェールで顔を隠す義務の法律はこの年廃止されました。また革命(1952)以前はカイロとアレクサンドリアにもオペラ文化がありました。しかし軍人たちが政権を取っちゃうともうその手のカルチャーは廃れてしまいますね…。
左がエジプト国王のファードで、右が当時のドイツ首相。エジプトの正装は赤いトルコ帽でした。しかしどちらも髭が似ています。(ナチスが政権をとるのは1933年)
ヒトラー政権になってからも再度「お願い、返して」と交渉し一度は返還されそうになるのですが、ヒトラーが審美眼があるがゆえに、最終的にヒトラーの判断で「ドイツは手放さない」、NGになります。のちにムバラク大統領が「ネフェルティティはエジプトとドイツを結ぶ最高の外交官」とずっこけた発言をし「だから軍人上がりはだめなんだ」と知識人たちには呆れられ叩かれました。ネフェルティティを贈呈しているならともかくも、違法で盗られているのにその発言はまずい、失言です。それにしても、死後何千年経っても「美人美人」と世界中で騒がれるとは!

 ファード国王はベルリン訪問(1927年6月)の後、ロンドン(7月)にも行きました。ちなみにベルリンの前にインドに先に行っているようですが、今回宗主国イギリスに訪れたのは初めてのことでした。
 ドーバ海峡を渡りイギリスに入国しますが、港には英国陸軍がずらりと出迎え英国教会の面々が登場したようです。
 そして列車に乗りヴィクトリア駅に到着すると、駅構内中は花で飾られレッドカーペットが。と、そこにはジョージ5世が登場。1940年に満州の溥儀皇帝を昭和天皇陛下が東京駅で迎えに来た時のことをふと思い出しました。

 駅を出るとここからの警備はバトンタッチしたようで、もう陸軍ではなく近衛兵らの出番になり、長い黒い帽子の赤い制服の彼らの大集団が警備にあたり、ロンドン子はひと目エジプト国王を見ようと大殺到。不思議と大フィーバーだったようです。映像にも残っていますが、何しろ1927年なので音声がないのが残念です。

隣はジョージ5世。
イギリス王族とファード国王。左端がエドワード8世でしょう。この時にエドワード8世はファードに会っているので、だから息子のファルーク王太子がロンドン留学をした時に、小説に書いた通り、あれだけ可愛がってやったのかもしれません。もしエドワード8世が国王の座から下りなければ、もしかしたら、もしかしたらファルークを革命から救った「かも」しれません。
イギリスのランチェスターにも訪問。なぜならエジプト綿の工場視察をしたからです。イギリスはエジプトから綿を運ばせるだけで、エジプトで綿加工などするような産業発展には一切手を貸しませんでした。エジプト綿(とスエズ運河株式会社)の発展については次作「エジプトの狂想(ラプソディー)」にて!よろしくお願いします✨

 なおファードはイギリスを発った後、船でヴェネチアのリド島に渡り遊んでいます。その時の写真など見ると、生き生きして楽しそうで一番くつろいだ表情をしています。公務ではなかったことと、あとイタリア育ちでイタリア語が第一言語の彼にとってはホッとできる「故郷」感覚だったのではないかと思います。(その後1927年8月14日はバチカン市国訪問、教皇らと記念撮影もしています。)
 それにしても、祖国では反王制を騒ぐワフド党などが動いていたはずなのですが、呑気ですね…。
 ちなみに、25年後に革命を起こし王制をぶっ潰すナセルはこの前の年に母親を亡くし、この年に新しい母親(郵便局員の父親の再婚相手)を持ち、翌年の1928年にアレクサンドリアのラス・エル・ティーン(岬の無花果)中学校に入ります。

参照


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