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「死」とは「カエル」ことなのである

死とは何なのか。最近そんな事ばっかりだが、私は一つの可能性にたどり着いた。

それはある意味、現実的であり、仏教的であり、スピリチュアル的である。

すべての目線から言える事なのではないかという可能性だ。

それが題名にある「カエル」というものだ。

まず大前提を見ていこう。


私たちは元々ここにあったものではない。

生まれたものなのだ。生み出されたものなのだ。それを望んだにしろ望んでないにしろ、間違いなく私たちは生み出されたもの。「生み出される」ということはつまり、「元々なかったもの」であるともいえる。
そう考えた時、では「死ぬ」とは何なのか。という話になる。
「死」は亡くなる。その場にいなくなることであり、「私」という意識を持つ存在がなくなることである。
これは「私」という存在自体の話だ。それが「なかった頃」の状態に戻るわけだ。これはつまり「還る」ことである。

次に現実的な話をしよう。死ねば、肉体は生命活動をやめる。生命活動をやめればあとは朽ちるのみ。朽ちるということはその形状を保たず、崩れていく。人は葬送をする。火葬するか、土葬するか。今では堆肥化葬やキノコ葬などと言って生き物の養分になるような葬り方まであるという。自然で暮らす民族なら鳥葬と言い鳥に食べさせる葬り方もある。かつて日本も風葬をして鳥や野犬に食わせ、土に還っていたわけだ。
これはいわゆる「私」が入っていた「肉体」の話だ。私たちが動かしていた肉体。生み出された肉体。これはこの世の物体であり、この世の物体を摂取し構築されていたものである。肉も骨も細胞全てこの世の物質である。「死」とはこれを世に「返す」ということになる。

では、「魂」というものはどうだろうか。本当にあるのかどうか。なかなか判断しえない。しかし宗教やスピリチュアルの世界で考えると、どうもその世界観では「魂」とは元々この世のものではないらしい。というか魂がこの世にあるのなら怖すぎる。そこら辺にうようよ浮いているとでもいうのか。死んだら「あの世」に行く、場合によっては再来する。とのこと。行ったり来たりしているわけか。だが少なくともこの世では肉体が無ければ動けないし、何も表現できない。この世は肉体の世界なのだから。私は日本人なので仏教や神道の思想なのだが、これらによると、どうも魂に当たる存在は、「浄土」や「黄泉」に行くらしい。仏教では輪廻転生という考えもあるが、それは六道輪廻という苦しみの世界であり、それを解脱すると「極楽浄土」に行けるのだとか。あの世に行くのだ。神道や日本の民俗信仰では家の守り神になるという考え方もある。それはその土地に根付く「祖霊神」なのだとか。キリスト教では天国に行って神の下部となるのだとか。宗派で違うらしいけど。
いずれにしても「肉体のあるこの世」ではない所に行くらしい。それは物質的ものでない意識である「魂」のあるべき場所にふさわしいではないか。そんな魂の世界からこの世に肉体に載せられ生み出されたというなら、「死」とはいわゆる魂が「帰る」ことにもなる。

よく魂が帰ってゆくともいう。映画とか小説とか漫画とかで。それもそういう思想から来るのではないか。
日本の祖霊神も、言ってしまえば土葬しても火葬してももう家を守る神でしかない。どこにもいかず葬送地から「帰ってきた」ということにもなる。

以上、私は考えた。

一言でいえば、

「肉体」を返し、「私」が還り、「魂」は帰るのだ。

死とは「カエル」ことなのだ。すべてが「カエル」現象なのだ。
これを「カエル化現象」とでも名付けようではないか。

怖いものではない。恐れることではない。

ただ元に戻るだけ。生まれるということは、元々なかったものが生み出されるわけで、それがなくなれば、元に戻っただけなのだ。最終的には皆いずれ「カエル」。

さあ、帰ろう。

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