見出し画像

”女の敵は女”の世界になった理由 女性どうしの人間関係が難しいのはなぜか?

女性どうしの人間関係は複雑、だと思われがちである。
もちろん、男性どうしだって人間関係がないわけではないが、女性どうしの人間関係は特に陰湿だったり、怖い、とされることが多い。

”男の友情はハムより薄い”とか、”男の敵は男”という言葉をあまり聞かないのに対して、”女の友情はハムより薄い”とか、”女の敵は女”、という言葉をよく聞くことは、女性どうしの人間関係が孕む、特有の難しさを示す。
その特有の難しさゆえ、女性たちの間で何か問題が起こって表沙汰になった場合、「女の世界は怖い」「女どうしって難しいよね」と、よく言われる。
(女性だけで構成される宝塚歌劇団のいじめ問題を報じるニュースに対するコメント欄を見ると、沢山のそのようなコメントで溢れかえっている)

しかし、なぜこんなにも女性どうしの人間関係は難しいのか。
いったい何が、こんなにも女性どうしの人間関係を難しくさせたのか。
「ああ、”女子の人間関係”って難しい」と嘆く手前、いったい何が原因でこんなにも女性どうしの関係性は難しくなったのか、とにかく知りたい…。
そんなことをぐるぐる頭の中で1日中考えていると、本屋でタイムリーなもの出会った。
精神科医の水島広子さんが書いた、「整理整頓 女子の人間関係(sanctuary books 2014年)である。今まで、女性どうし特有の人間関係に対する対処法を記した本は存在していた。しかし、今まで出版されてきた本の中には、単なる対処法が記されているだけで、なぜこんなにも女性どうしの人間関係が難しくなっているのか、その原因についてはほとんど論じられてこなかった。この「整理整頓 女子の人間関係」は、今まで出版されてきた女性どうしの人間関係に対する指南書とは一線を画しており、対処法を示す前に、そもそも特有の難しさが生まれた原因(主に社会構造)について、詳しく論じている。

読み進めていて、特に印象深かったのは、水島さんが女性の人間関係の難しさを、女性が「選ばれる性」であることに起因していると考えていた点である。
例えば、どんな男性と結婚したか?が、その女性の価値と関連して語られることが多いこと。人気のある男性と結婚した女性が「彼女は本性を隠して相手に取り入った」、「なぜあんな女性が選ばれたのか」というように、しばしばバッシングの対象になるのに対し、人気のある女性と結婚した男性に対しては、女性側の好みの問題として語られることが多く、詐欺師的な男性でない限り、彼は本性を隠して相手に取り入った、などと言われることは少なく、男女で非対称性があること。
これらを挙げて、いまだに女性が「選ばれる性」に属している、と指摘している。
そして、「選ばれる性」に属しているゆえに、女性たちは自分が「選ばれる」か否かに依存することになる。その結果、女性たちは、他人から自分がどう思われるのか?他人に比べて自分はどうなのか?という、自分ではなく他者個人の感情などに左右される、相対的評価を主軸としていく。そのことが女性どうしの人間関係の難しさに繋がっている、と続けて指摘する。
確かに、自分の経験を踏まえても、女性は「選ばれる」立場なのだ、と思わされる経験は少なくない。プロポーズやナンパなど、一方の性がもう一方の性を選んでアプローチをする場合、男性から女性へ、という風潮が強いこと。(女性から男性にプロポーズやナンパを行った場合、”逆”プロポーズ、”逆”ナン、と言われるのはそのためである)女性向けファッション雑誌などを見ていても、男性から”愛される””選ばれる”メイク・ファッションなどを、前面に押し出していること・・・。(例えば、愛されメイク、愛されファッションなど、女性が選ばれる、受動的な立場にあることを前提として、メイクやファッションを特集していることも多い)
そのままの言葉で、「女性は選ばれる性だよ」とは言われることはなくとも、それらの風潮やメディアなどによって、自分でも意識しないうちに、女性は選ばれる側なのだ、と考えていることは多かった。

また、女性が「選ばれる性」として、絶対的評価ではなく、相対的評価を重要視・主軸とする傾向がある背景に、男尊女卑的な男性優位社会の存在を挙げているのも、かなり興味深かった。
女性が結婚をせず、独立して生きていくことなど絶対にできなかった時代、女性たちは良い男性に選ばれるため、自分を磨いていた。時代の変化によって、現代においては女性が結婚をせず、独立して生きていくということが可能になっているものの、女性が男性優位社会の中で「選ばれる性」として位置付けられたことは、未だに人々の価値観に大きく影響を及ぼしており、そのことが、女性たちに自分たちが「選ばれる」側であるということを刷り込んでいく。そして、もちろん個人差はあれど、女性たちは男性に比べて、相対的評価を重要視し、主軸としていく。絶対的評価(例えば、社会でどれほどの地位に就くか、どれほど出世するか、など)ではなく、相手との関係性をひたすら重視し、他人から自分がどう思われるのか?他人に比べて自分はどうなのか?という、自分ではなく他者個人の感情などに左右される、相対的評価に身を委ねていく。

女性どうしの人間関係特有の難しさは、ただ単に狩猟採集時代における男女の役割分担から生まれた”人間の本能”によるものである、と考えるのではなく、男性優位社会によって女性が「選ばれる性」として位置付けられたことに深く影響を受けたものである、考えている点にかなり衝撃を受けた。
(男性は狩猟をして女性は採集をするという、今まで考えられてきた狩猟採集時代における男女の役割分担に対しては、近年の研究によって、そのような役割分担が実際に行われていたのか、かなり疑問視されている)
この水島さんの考えを踏まえた上で、自分の経験を振り返ってみた。すると、今まで自分が女性どうしの人間関係に対して抱いていたある謎が、解けていった。

高校に入った途端、女子どうしの関係であまり悩まなくなったこと。
それが、私がここ数年抱いていた、女性どうしの人間関係に対しての謎である。
私の在籍した高校に、女子どうしのトラブルは全くなかった、という訳ではないだろうし、ただ単に運よく私が巻き込まれなかっただけかもしれない。それでも、自分が悩むことはほぼ無かったし、友達から女子どうしの関係について、悩みを聞くことはあまり無かった。小学校、中学校での状況との違いにかなり驚いた。小学校と中学校までは、あんなに悩みや相談が溢れかえっていたというのに。ここは砂漠の中の、一縷のオアシスか…。
高校1年生として学校に慣れ始めたころが懐かしい。まだ少し真新しい制服に身を包まれながら、金木犀の香りが漂う穏やかな秋、自分も季節同様の穏やかな気持ちで、学校の人間関係の在り方に思いを馳せたものである。
しかしながらその穏やかな気持ちと同時に、高校も小学校・中学校と同様に、女子たちが多く集まる場所であるのにも関わらず、女子どうしの関係性が全く違うことを、本当に謎に思う気持ちもあった。
ただ単に、「高校に進学した」だけなのに。
しかし、今振り返ると、思い当たる点がある。
それは小学校・中学校とは異なり、高校は”進学校”だった、という点である。(自称進学校だったかもしれないが…)つまり、学校全体に勉強をするという雰囲気がとどめなく流れていたので、(大量の課題、毎日の小テスト、ひたすら受ける模試、など)否が応でも無意識的のうちに、偏差値や順位、進学実績などの、絶対的評価の世界に自分の身を置かざるおえない状況だった。たとえ絶対的評価の世界に身を置きたくなかったとしても、学校や友達の雰囲気から、抗うことはできないまま、そのような評価の世界に押し込められていた。つまり、男女関係なく生徒たち全員が、自分の勉強に対する努力によって決まる絶対的評価の世界に置かれていたからこそ、他者との関係性によって決まる相対的評価を主軸とする女子は、小学校、中学校に比べてかなり少なかったのである。よって、私は小学校や中学校に比べ、女子どうしの人間関係で悩むことはほぼ無かった、ということだ。
また、学校から立て続けに出される大量の課題、実施される模試などに代表されるように、ひたすら勉強をさせる過酷な環境だったために、同じ辛さを分かち合う生徒どうしの団結力と絆が、そのような人間関係の状況を作り出していた側面もあるだろう。
偏差値や順位、進学実績など、数字で表される厳しい評価の世界だった高校が、私自身、かなり嫌になったこともある。しかし、今思えばそんな世界を持つ高校だったからこそ、私は女子の人間関係で悩むこともなく、温かくて穏やかな関係を、多くの女子と築くことができたのかもしれない。そう思うと、あの過酷な小テストに大量の課題、そして休日返上模試も、そこまで悪いものではなかったかもしれない。

今までは、その複雑さや難しさに直面しても、それついて深く考えることもなく、ただなんとなく”仕方ない”と済ませていた、女性どうしの人間関係。
今回、この水島広子さんの「整理整頓 女子の人間関係」を読んだことで、今まではなんとなく”仕方ない”で済ませていたその複雑さと難しさが、男性優位社会における女性の「選ばれる性」としての立場に起因するものだと考えられていることを知り、大きな衝撃を受けた。
この出来事は、自分が今まで受け流していた問題の根本に、歪んだ社会構造が隠されていた、ということを知る今までにない経験だった。
今回は女性どうしの人間関係の特有の難しさについて考えたが、ホモソーシャル(主に男性だけで構成される集団のこと)における問題にも代表されるように、男性どうしの人間関係における難しさも、もちろん存在している。

女性どうしの人間関係が持つ特有の難しさに悩んだとき、もしくは男性どうしの人間関係が持つ特有の難しさに悩んだとき、”女だから仕方ない””男だから仕方ない””本能だから仕方ない”と、単純な言葉で終わらせることが、私は抜本的な問題の解決に繋がるとは思わない。
”男だから””女だから”と、その人間関係の難しさを嘆いて耐える前に、男尊女卑で男性優位という歪んだ社会構造が、男性に対しても女性に対しても深く影響を与えているうえ、”特有”とされるそれぞれの人間関係にも、大きく影響していることを考えるべきであると思う。















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?