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煙の向こう側  最終話

帰りが遅くなるとこうから連絡が入り、母となごみ
悟と怜で食事を始めた。その時だった。
怜がかき混ぜていたスープを、ランチマットにこぼした。
母は、その時、怜に向って「あぁー!!」っと大きな声をあげた。
怜は、突然の祖母の大声に手が止まり、眼をウルウルと潤ませている。
和はすぐに、「溢してもいいようにランチマットがあるんだから、気にしなくていいよ、怜」となだめた。
すぐに食べ始めた怜だったが、次の瞬間、緊張の為か、またスプーンを跳ねてスープを溢した。
「あっ!!」と、また祖母の声。
とうとう怜は、スープを飲むのを止めてしまった。
悟が祖母に向って「おばぁちゃんが、大きな声だすから怜がびっくりして
スープをこぼしたんだよ」と、ブツブツ口ごもっているのが聞こえる。
和は、冗談めかして「大きな声だしたら怜が、すぐ泣きだすことくらい、一緒に住んでてわからないの」と、付け足した。
その時だった
母は、突然食卓を立ち「もう、何も言わない,あんた達とは、しゃべらない」と、自分の食事を持ってでていってしまった。そして、自分の部屋のドアを忌々しそうにバタンと閉めた。
その音に、食卓に残った3人は、また驚いたのだった。
怜のせいなの?と和を見上げる怜に「怜のせいじゃないから心配しなくていいよ、おばぁちゃんの態度よくないねぇ、相手の人が嫌な気分になるのに」と怜に答えたものの、悦代の高ぶった大きな声が、耳から離れない。
昔、叱られた記憶が心の中で蘇り身震いさえも覚える和であった。

暫く会話が途切れたが、すぐにほかの話題になり、楽しく食事を終えた。
食事の片づけが終わって孝が帰り「お母さんは?」と和に聞いた。
和は数時間前に起きた出来事を、孝に話した。

暫くして、和は居間から見えるベランダに母がいるのに気付いた。
また、煙草をふかしている。
煙草の煙やにおいを嗅ぐたびに、嫌な気分になる。
その思いは、今も変わってはいない。
母を受け入れようとする自分がいることも確かだったが、許せない自分を消し去ることができないでいるのも事実だった。

時間が過ぎて、和は孝と自分たちの部屋にいた。
階下から何かブツブツ言っている声が聞こえる。どうせ母の小言だろうが
内容までは聞き取れない。

次の日の朝、怜が和にすり寄ってきた。
「昨夜、おばぁちゃん、お母さんの悪口い~っぱい言ってたよ」
怜の部屋は、母の部屋の隣である。
襖1枚隔てただけの間取りなので、ブツブツ言っているのが聞こえたのだろう。
最初、その部屋は和たちの部屋にするつもりだったが、襖の向こうに母がいると思うとわずかな声が聞こえるだけで、忘れられない記憶がよみがえってくる。嫌で嫌でたまらなかった。そこで、仕方なく子供の部屋にしたのだった。
こんなにも呪縛に苛まれていたとは、自分でも驚いた。
心に空いた穴は、思った以上に深く、暗い闇に包まれているのだ。
それは愛情という水を注いでも注いでも、いっぱいにはならない。
ふとしたことで、思い出してしまう。
父のことを思うときだけが、幸せに思えた。
逝ってしまった人との思い出は、いつの日も美しいもの。
そして、残されたものは、それを塗り変えることはできない。
変えられないからこそ、美しいのだろうか。

母も、和も仕事をしている。
母は朝の早い仕事の為、和が起きるころには出かけてしまう。
顔を合わせないのが幸いしていると言っていい。
日々の暮らしで母は、和の代わりに洗濯物をとりこんでくれる。
朝早くに出かけ昼過ぎには帰っているから、当たり前のことのように思うが
常勤の和にとっては、大助かりのはずだ。
あれ以来、母の日にはプレゼントをすることも忘れてはいない。

だが、心の中の氷はまだ、全て溶けてはいなかった。

母が和が少しでも楽なようにとしてくれていることを、ありがたいと思うこともあったが、母は自分の満足の為にやっているのだという気持ちが、心の
何処かにあった。
子供たちが、母のことを嫌っているのも自分のせいだということも
解かっていた。
「そんなこと言っても、おばぁちゃんは、あんた達のこと思って言ってくれてるんだから、ありがたいと思いなさい」と、言えない自分が情けないこともある。


スープ事件があって暫くして和は母を食事に誘った。
和の検診の日が、たまたま母の休みと重なったからだ。
二週間ほど前から、半年に一度は顔をみせていた筒美と連絡が取れなくなり、どうしているのかと気になっていたこともある。
母も携帯がつながらないと気にしていたので、そのことを聞いてみようと
思っていた。
「筒美のおじいちゃん、どうしたんだろう。また持病の糖尿が悪くなったのかなぁ。自宅へ電話してみてよ」と、和。
「別に、来なけりゃ来なくていいよ、電話なんかしたくない」と、母。
「何十年も一緒にいたのに、心配じゃないの?」と和が聞くと
「別に・・・」と、母。
「じゃぁ、なんで一緒にいたの?」
「お金のためさ」
和は、言葉が続かなかった。もう、何も話したくなかった。
深いため息がでた。

 これが、自分の母なのだ。

いつもいつも母のようにはなりたくないと和は、自分に言い聞かせていた。
世の中に『反面教師』という言葉がある。嫌っている母からも、学んでいることがあるとは皮肉なものだ。
勿論、孫に対しては優しい一面がないわけでもない。自分の言うことを素直に聞いたり、何か頼まれたりすると、ブツブツ文句を言いながらも、上機嫌だったりする。

母はこの頃よく風邪をひく。歳のせいもあるのだろうが、免疫力が落ちているのだ。喘息の持病があるので、いつもゼイゼイと痰のからんだ咳をする。
煙草を控えるように言ったこともあったが、聞く耳を持たない。
それに腹をたてた和が
「あんたが死んだら、棺桶の中に山盛りの煙草を入れてあげる」と言ったことがある。
母は「ああ、そうしてくれると、嬉しい」と、言葉を返した。
和は「私は煙草のにおいが大嫌い」と、言い返した。
母は煙草に何を思うのだろう。
自分の言えない思いを、煙と一緒に吐き出しているのだろうか。


和はこの頃、何度も同じ夢をみる。
団地で4人で暮らしていたころの夢だ。
だが何故か、登場人物はいない。
あの頃は、家計はたいへんだったが、しあわせだった。
子育てに追われ疲れていたが、しあわせだった。
何気ない笑いがあふれていたように思う。


暫くして、嘉子ママからの支払いが途絶えた。今まで遅れたことはあったが、全くないというのは初めてだ。
身体を壊しているのではないかと、心配ばかりが先にたつ。
電話をいれてみると、入院していたとのことだった。玄関先で転んで
腰を打ったとのことだった。

その二か月後、連絡がとれなくなった。
電話を入れたが、嘉子の携帯も、賢介の携帯も同じメッセージが繰り返し流れるだけだった。

もう言葉で騙されてはいけないと、何度も学んだはずなのに、心に空いた穴を埋めるのは、この『言葉』でしかないのだ。



和は裁判所に、履行勧告命令の手続きを申請した。

風の便りに賢介の会社が倒産したと聞いた。謙介は利用されていた。和は確信した。


父の愛した嘉子も煙草を吸うのだろうか。

和は母のぬくもりを求めている。

和は、母と一緒に住みだした頃、母が筒美に縋って泣いていことを思い出した。
母は、もし私がいなければ、別の人生を生きていただろう。


母は一人で煙草を吸うとき、何を思うのだろうか。

             
母はけむりの向こう側にいる。煙ではっきり見えないけむりの向こう側に。




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