記事一覧
【詩】語り得ぬもの・親密なもの
水を舐めに来た
骨が尖っていた
火の色をしていた
体温はなかったが
薄水色の感情があって
体を回すのが上手だった
脊椎の数がよくわからなかった
骨と骨との距離が
僅かに甘美な匂いを放つ
昆虫のように薄く半透明の翅があったが
飛ばないので翅とはいえない
低温でよく溶けて
人の心に
染みつくこともあった
実在するには
時間が足らない
【詩】だんだん変わるということ 〜S教授へ〜
その間際が一番謎めいて心を惹いた
表情が消え言葉からもあらかたの個別性が消えた
散らばった言葉は掃き寄せられて唇を動かし
色形のない花になってぽつぽつと大気の階梯を登った
手はそういう手ではなくなり
足もそういう足ではなくなり
全身がものと入り混じるように認知の対象から外れた
もうそれはそれではない これはこれではない
愛が、もう愛ではなく純度の高い水として
とどめ難く流れ落ち始める
すべての事物
【詩】どんどん開いていく
三角錐の底辺がどうしても三角形であることに
特に不満はなかったけれど
実際はどんどん定義が変わっていくので
今日のようによく晴れた春の日には
もう上半身裸になって
人の群れの本来のあり方である
人口ピラミッドの底辺に降りていく
乳幼児の死亡率が高い野生のピラミッドは
底辺が四角じゃなくて三角なんだそうだ
冗談じゃないよね
クフ王のはるか前から
建築物のピラミッドは四角錐なのにさ
バベルの塔は円錐
【 詩 】人には使命がある
人には使命があるという脅迫から逃れるために
僕は多くのものを失ったが
僕自身というものを失ってしまったことが最大の喪失だろう
使命を果たさずに済むのは
使命を果たすに値する資質に欠けるものだけだから
資質が後天的に得られるものではないとすれば
使命からちゃんと逃れようとするには
自分の根本的な無価値を認める、そのことに
人生のすべてを費やさなければならないはずで
実際に僕はそうして生きて来たのだっ
【エッセイ】昭和の子
「われは明治の兒ならずや。」
永井荷風の「震災」という有名な詩の一節です。
三ノ輪の浄閑寺というお寺でこの詩碑を見て初めて知りました。
この詩に倣えば、僕は昭和の子。
昭和三十六年生まれです。
昭和は戦前戦後で大きな断裂があるので、僕は「戦後」の子なのかな。とはいえ、同じ昭和ということで戦前とも「地続き感」があります。
子供時代、まだ白装束で軍帽を被った傷痍軍人が神社の祭りの場などでアコーデ
【詩】「町」或いは「記憶の外の死者」
病院の四階から南への眺望は海のはずだが
さまざまな建物が密集し何も見えない
霞がかった空の下辺が、町の端を飲み込んでいく
大きなガラスの向こうで
仰向けの猫の腹のように
明るい春の情景がゆったりと動いている
建物の間を遠く新幹線が走り抜けるのが見える
これは滅びの手前の景色だ
僕のこの、誰かを愛したくなるような
穏やかな充足も
死の手前の肥大して緩みきった幻であろう
今日は春分の日
不揃いな建物の
【詩】変わってく私を見ていて下さい
私は、という語り始めからしてもう終わりの現象の一部なんですよ。そういうと自分のことをそうやってごまかさないで欲しい、といつも詰め寄られるんですが、こうやって体を捻りながらキスをして舌が絡めば、私は、そう今の現象の私は、きらきら流れるように欲情していて、肉体的でありながらただただ脱肉体的な興奮に走ってしまっている。こうやって空っぽに自分の中身を押し流すから私が私である理由なんてどうでもよくなって。
もっとみる【詩の感想】『石川敬大詩集 ねむらないバスにゆられて』
石川敬大さんから送って頂いた詩集『ねむらないバスにゆられて』を読み終わった。随分前に頂いておきながら、読む力が弱いのでゆっくり少しずつしか読めないでいた。
とはいえ、決して読みにくい詩集ではない。作者ご自身があとがきで述べておられるように、どこまでも「わかりやすく易しい言葉」で書かれている。
どの詩も一見既視感のある文脈から流れてくる。たとえば、「父がいた」という詩編では、「メガネを置いた夕
【詩】美しいということ
私は単純であった。私は自分の動作を手と足を動かすものと、それに付随した各筋肉の緊張と弛緩として捉えていた。天象はめぐる。何も知らない者、私は日月の巡りを繰り返される現在としか捉えられなかった。天文の力学とも認識の精緻とも無縁なところで光を浴びて生き、体の経験は一行の言葉に言い換えられ、そのまま消えていくようだ。例えば私は「今日は寒いね」と恋人に言って、窓から差し入る冬至近くの乾いた陽光のベッドで
もっとみる