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説明しないという日本の美学

めしという映画を観た。林芙美子原作、1951年の成瀬巳喜男監督作品だ。主演は、原節子だった。

あらすじは以下の通り。(結末も含みます)

親の反対を押し切って初之輔と結婚した三千代は、結婚生活5年目を迎えたが、家事に追われ、家計をやりくりするのに精一杯の毎日。他所から見れば幸福な夫婦に見えるが、夫婦仲は冷え切っており、初之輔は口を開けば「めし」のことしか言わない。
そんな折、東京から家出して来た姪の里子が大阪へとやってくる。献身的に妻としての役目を果たして来た三千代をよそに、若くハツラツとした里子と楽しげな様子の初之輔。苛立ちを隠せない三千代は、ついに、東京の実家へしばらく帰ることを決める。
東京へ帰った三千代は、いとこに職探しを頼み、自活も考えるが、大阪の初之輔のことを心配する日々。街へ出ると、戦争で夫を失い、働きながら女手一つで子を育てる友人の姿を目の当たりにし、衝撃を受ける。しかし、手紙をしたためるも、初之輔から手紙が来ていないことを思うと、三千代も出すのをやめてしまう。
そろそろ大阪へ帰ったらどうかと、周囲に言われだした頃、初之輔が出張で東京へと出向いて来る。久しぶりに三千代と再会した初之輔は、「君が頑張ってくれているのは分かっていたのだが、なかなかね…もっと給料の良い会社へ行ったらどうかと話も出ているが、君と相談してから、と言ってある」と、しおらしい様子だ。手紙について尋ねると、「すぐ帰って来ると思って手紙は出さなかったよ」と当然のように言う。三千代は、思わず笑ってしまう。「ああ、腹減ったな」といつも通りの初之輔である。
三千代は、帰りの汽車の中で、出さなかった手紙を破り捨て、女の幸福について考える。女の幸福とは、愛する人に寄り添い、幸福を求めながら懸命に生きることではないか。隣で眠る初之輔を眺め、この平和さこそ幸福だと微笑む。


女は、結婚し、家庭に入るのが幸せだった時代。この幸福は、女にだけ許された幸福の形である。現代なら、特に欧米などでは、この映画の結末について男尊女卑だとかうるさく言われてしまう可能性すらあるが、私はこの時代の日本の夫婦の形が割と好きだ。

亭主関白で口数の少ない旦那。
好きだとか、愛しているとか、そんな少女漫画や海外のラブストーリーに出てくる歯の浮くような台詞は言わない。
それどころか、ありがとうとか、そういう労いの言葉すらないし、妻に対して、「おい、君」、もしくは「おい、お前」と声をかけ、妻は当然のように、はい、と返事する。
けれど、言わないだけで、そこに愛情があることに違いはない。妻は夫の、夫は妻のことを、ちゃんと考えている。
そういう、あえて言葉にする必要がない夫婦の関係は、そう簡単に作れるものではないと思う。

確かに、昔の日本では、女は結婚して家庭に入るのが普通で、現代のように女性の社会進出は進んでいなかっただろう。
それは、女性の働き口の少なさと、女性が働いて得られる給料の低さ、女性の生き方に対する価値観が現代のように多様ではなかったことが大きく関係していると考えられる。
この映画の中でも、初之輔の姪の里子は、女子事務員の求人に応募しようとするも、給料があまりに低いのでやめてしまう。大阪観光へとバスに乗れば、バスガイドを見て、どれくらい貰ってんのかしら、と言い出す。最後に里子が「やっぱりあたし、お嫁に行っちゃうわ」と言うと、初之輔も「それが良いよ」と言う。
このエピソードからも、結婚せずに女ひとりで生きていくのは難しく、結婚こそ幸せだと考えられていたことが分かる。

けれど、女性も働ける社会になった現代において、共働き、仕事の忙しさからすれ違いが生じる夫婦の姿は必ずしも幸福だとは言い難い。
また、現代の女性たちの間に、30までには結婚したい、専業主婦になりたい、婚活しなくちゃ、という思いがあることは事実である。
働ける社会になったのに、働かずに家庭に入ることを望むようになった私たちは、当時とは別の意味で苦しんでいる。
それは、時代が変化したとは言え、過去から受け継がれた女としての価値観が、まだ消えることなく私たちの深層に流れているからに他ならない。
その過去の価値観を保ちながらも、現代では、カップルでさえ「何で言わないの?言わなきゃわかんないじゃない!」と喧嘩をするのは珍しくないし、問題があれば「話し合おう」と“会議”を開いてみたり、何度も“会議”を開いた結果、価値観の違いを発見し、破局する場合もある。
そう考えると、むしろ、何もかも説明しなくては理解し合えない、そういう男女の関係しか築けなくなってしまった現代の私たちの方が、もしかすると不幸なのではないだろうか。

昔の日本人には、何も言わなくとも察するということへの美学のようなものがあり、夫婦の結びつきもその上に成り立っていたような気がする。
映画の中で、里子は、三千代に、「あたしがお嫁に行った方が三千代さんも幸せなんでしょ」などと言うのだが、三千代は思わず吹き出してしまう。
確かに里子は若くて可愛いけれど、三千代と初之輔夫婦にとって、そのような影響力はない。ただ、結婚した方が里子にとって幸せだろうと思ったから「それが良いよ」と言ったのである。
それだけ、どっしりとした、少しのことではビクともしない夫婦間の信頼関係が、そこにはあるのだ。だが、若い里子は、直接的な言葉を交わさない夫婦に、深い愛情に基づく信頼関係があるということに気づいていない。

二人が東京で再会するシーンが一番印象的だった。
なぜなら、そこに、言葉にはしないけれど伝わる日本人らしさが、詰まっているように感じたからだ。
久しぶりに再会した三千代と初之輔も、すまなかった、ごめんなさい、と謝ったり、愛しているよ、と言ったり、そうして抱きしめ合ったりはしない。
日本ではない海外の映画なら、ここでキスシーンや熱い抱擁のシーンがあるに違いない場面で、二人はただ微笑んでいる。三千代が、私の分のビールもどうぞ、と差しだし、初之輔は、それを飲み干して「腹減ったな」、三千代は「じゃあそろそろ帰りましょうか」と言うのである。
けれど、その些細な、しかし長年日常を分け合って来た夫婦にしか出来ないやりとりの中に、キスやハグ以上の親密さや愛情深さがあるような気がした。
そして、それは現代を生きる私にとって、とても美しく稀有なものに見えた。

こんな風に、この時代の日本人のように、以心伝心とも言える夫婦の関係を築き、愛するひとの側で添い遂げることは、どの時代の女性にとっても幸福と言えるのではないだろうか。

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