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今も街はひとしく ここにあるだけで


──もうすぐ、2019年が終わる。

この書き出しで始めるnoteは結構ダサい気がするけれども、もっと気の利いたフレーズで年末を総括できるほどのセンスがないので早々に諦めたい。

さっさと終わっちまえ、2019年。令和元年。
お察しの通り、今年は私にとって最悪の年だった。しかしながら、そんななんの実りもない空っぽな一年にしてしまったのは、まあまあな比率で自分のせいである。

私は休職期間中に2019年を迎え、1月末に母親が事故を起こして入院した。祖父の介護などで疲労を溜め込んだ結果、車線を外した先の木に突っ込んだらしい。生きててくれて良かったけれど、父からのそんな連絡を受けて私は一人、東京の冷たい部屋の床に座り込んでひたすら泣いていた。
ひとまず実家に身を移し、父と二人きりの生活の中で家事全般をこなしながらもこの先が思いやられる、それが今年の始まりなのであった。

その後の私は、どうにか転職先を決めて休職から退職へ、そして再就職したものの、たったの3週間でその日中に仕事を辞めた。そして焦ってExcelだかAccess系の職業訓練校とやらに入学するもまさかのオリエンテーションで過呼吸を起こしてそのまま辞めた。なんとか生活費を稼がねばと始めたお菓子屋さんでのアルバイトもお金を扱うというプレッシャーに負けて地元に帰ると決めた事を理由にして早々に撤退したのであった。
私はこれまでなら乗り越えられた事、そつなくこなせた事が、どんどん出来なくなっていた。一体どうしてなのか、いざその場に立ってみると何かにつけて長く続けられる気がしなかった。そしてその都度、逃げた。──“私は、もう何もできないんだ”、そう思った。そう強く思い込んでしまった。

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これまでの人生において、“逃げる、辞める、諦める”といった選択をした経験が少なかったためか、“出来る”という強い自尊心だけが保たれたまま行動に移す癖が空回りした結果、とことん悲劇が重なったのだと今でこそわかる。

自分の長所だと思っていた“行動力”が仇となり、失敗経験を積み重ねてしまった。一度決めたらやらないと納得がいかない。今となっては運が良かったのか悪かったのか、これまでそうやってたまたま成功経験を積み重ねてきてしまったものだから、根拠のない自信がひたすらに私を焦らせた。
客観的に見れば、その様子は完全に生き急いでいた。ただ、当の本人は人生のレールからの脱線を一刻でも早くなんとかせねばと必死だったのだ。

──珍しく38℃超えの高熱が出て、下痢も続いていた。それでも面接に向かう、そして落とされる。

しかしながら、まともな判断力のなかったあの状態でまたイカれた会社にうっかり受からなかった事は逆に良かったのかもしれない。二の舞、三の舞、nの舞を免れたと思えば、結果オーライである。
色々逃げたとはいえ、再就職先が前代未聞のブラック企業だと判断した事は正しかったし、あれは人生最大の逃げ時だった。
それに経理職は性格的にも苦手だろうと端から解っていた。8時間ずっと細かな数字とにらめっこで座りっぱなしだなんて、頭もおしりもとんでもない事になりそうだ。そもそも私はイボ痔持ちだ。経理さんは、凄い。

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7月下旬、私はとうとう戦闘不能になった。ベッドのシーツを固く握ったまま動けなくなった。手から腕にかけてが勝手におかしな動きをするし大きな唸り声も上げた。表情は強ばり、顔は涙と鼻水と涎で息が詰まって溺れそうだった。
“働かざる者、食うべからず”という言葉に呪われて、私はどんどん痩せこけていた。スーパーで買ういつもの税込74円8枚入りの食パンは早々に食べきってしまって、もうない。

親に心配をかけたくない、その思いでいっぱいだった私を救ってくれたのは、友人たちだった。沢山の食糧を持ってわざわざ自宅アパートまで殴り込んできてくれたのだ。
はじめは泣いて抵抗した。タクシーで向かっているという彼女たちに対して、心の中で来るな来るな来るなと叫んでいたのは全く無礼がすぎたけれども、大切な友人たちに心配をかけたくない、その一心の表れでもあった。
その前にも、こんな私を見兼ねた学生時代から親交のある後輩たちが手料理をご馳走してくれただけでなく、帰り際には紙袋いっぱいに食べ物を持たせてくれた事もあった。

“私が心身ともに健康でない事の方がよっぽど大切な人々を心配にさせる”とここまできてやっと気づいたのであった。これほどまでにみっともない姿を人様に晒したのも初めてな訳で、どうかこれが最初で最後でありますようにと願うばかりである。
そしてもしこの先、そんな大切な人々に何かがあったその時は、一番に駆けつけると心に決めた。そのためにも、今すべきは養生だ。

ちなみに私は再就職先の都合で、都心からすると西方向にある街に引っ越していた。かつて多くの名の知れた文豪たちがそこで暮らしていたという。せっかく引っ越してきたというのに、たったの3ヶ月で出て行く事になったというのは全くもったいない話である。
仕事を辞めた日の週末、私は自転車で1時間半もかけてようやく多摩川に辿り着いた。その土手沿いで白くまアイスを食べながら撮ったのが、一枚目の写真である。私は思い悩むと川に向かう習性がある。

それ以外については、とある文学青年に連れ出してもらったその場所で撮った写真たちである。その彼は「このままで30歳になったら、僕は死ぬ」そういうタイプの人間だった。現在の心境がどうなのかは、知らない。

君が気を病んでいたって 彼が命を終えたって
こんな僕を憎んだって いくら君を愛したって
嫌なニュースを聞いたって 人が何人死んだって
今も街はひとしく ただここにあるだけで  ──「東京」THURSDAY'S YOUTH

彼がそういう考えを持つ人間だと知ったのは、私が上京して不当解雇されたばかりの頃だった。ただの学生時代の友人の延長で、上京さえしていなければそこまで関わる事もなかったであろう人物。
その前からなんとなく、この人の頭の中を見てみたいと思っていた。その他大勢とは異なる考え方や見方をするようなその雰囲気に、好奇心というか興味を持ったのだ。

「このままで30歳になったら──」のくだりを聞いた時、この人にはそうならないでほしいと純粋に思い、実際にそう伝えた。私も私で、急に失業したよシニテー状態だったがために「じゃあ、その時は一緒に死のうよ」と口走ってみたりもしたけれども、誰に何を言われようと彼に響くものなんてない、その時そんなふうに感じたのであった。彼独自の思想を冒涜しないためにも、私ごときが迂闊な発言をする事は謹むべきであったと反省をもって今は思う。それでも、せっかく縁あって出会った友人に死なないでほしいと思うのは、ごく当たり前の感情のはずである。

私たちは同い年なので、彼が30歳までは試験的に生き続けるとするならば、それまではまだ猶予がある。ただ、その前に私が本当に死にたくなってしまった。
何度も死にたい死にたいと彼に言った。いつの間にか彼の前で泣く事に抵抗がなくなってしまっていたし、彼がもし本当に死にたがりならば、あと5年間なんか待たずに私のように泣きわめけば良いと思った。どうせ自殺など出来やしないと自分でも解っているから、私はいつだって辛かったのである。
それなのに彼は何も言わず、私の癇癪が治まるまで黙っていつもそばに居てくれた。はじめはそんな様子が気にくわなかったのか、お酒に酔った勢いなのか、無意識に彼の靴下を無理矢理脱がしてぶん投げた事もあった。

“メンヘラ”という言葉は差別用語だと思っているのであまり言われたくないのであるが、この時ばかしはこの私めがメンヘラ日本代表なのであった。2020年の東京オリンピックなど全然どうでもいいからさっさと殺されたいぐらいの勢いで。

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自殺者の割合は、女性よりも男性の方が断然多いらしい。それは彼を見ているとなんとなく理解できるような気がした。“死にたい”という感情を、来るその日のために蓄えているかのように黙り込んでいる。いつかその日が来たら、その感情の溢れるままにあっさりと逝ってしまうような危うさ。いのちは儚く、そして軽い。──本当にそうなのかもしれないと錯覚する。

私が彼を探ろうとしたように、彼もまた私という人間を探っていたのであろうか。
楽しい場所に居ても、綺麗なものを見ても、涙が溢れてしまう情緒不安定な私を横に連れて歩くだなんて色々と都合が悪いだろうに、それでも彼はそんな私と一緒に美味しいものを食べたり飲んだりしてくれたのであった。

そんな彼と最後におでかけをしたのは、8月上旬の事で、花火大会に誘ってくれた。その時に私は「来週、東京を離れてこれからは実家で暮らす」と告げた。周りは浴衣や甚平姿のカップルばかりだったけれども、勿論私たちはいつも通りの格好をしていた。男女の友情のあるないの議論の答えは、“あるようでない”だと思う。それでもきっと私たちは友だちなのだ。
翌日、昼食を終えて解散となるところでまたも涙が溢れてしまったのであるが、それは“彼とまだもう少し一緒に居たい”ではなく、“独りになりたくない”という感情に近しかった。都合の良いもので、さも前者の意味合いかのように「あと一時間だけ、時間くれない?」と私は言った。

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すると彼は「行きたいところがあるから、今から行こう」と言った。私は近くの公園ぐらいでかまわなかったのだけれど、言われるがままについていくと、行き先は目黒某所の豪華ホテルの展覧会だった。どうやらここらでは有名な展覧会らしく、想像以上にそれは多くの人々が見に来ているようだった。
フロント横にあったトイレでもうひと泣きさせてもらうと、顔はもうメイクが崩れてほぼすっぴんなのであった。取り急ぎ、マスクをして誤魔化したけれども、相手が大好きな彼氏だったとしたらこんな顔で一緒には居られない。それはそれで何かジレンマを感じる。

その後、広いホテルのスペースを歩きながらごく普通の質問として「どうしてここまで私に良くしてくれるの?」と訊いてみた。
それに対して彼は「それは当たり前の事だから」と言ったのであった。
随分と“当たり前”の幅が広いものだと私は思った。自分が男だったら、次の日は仕事な上に彼女でもないメンヘラ相手に貴重な週末を48時間も割くだなんて絶対に御免だ。
「そっか」とだけ呟いて彼が見たかったという展覧会を見て回った。案外渋い趣味だとは思ったけれども、それは私も同じなのだった。

今まで色々 手に入れてきた
そのほとんどがここにはもうないけど

地元に帰って来てからというもの、最初の3ヶ月余りは何も変わらず死にたくてたまらなかった。目が覚めてまだ自分が生きているという事に絶望する朝、両親に見捨てられるのではという異常妄想、食欲がないために食事時が苦痛で、あの“働かざる者、食うべからず”の呪いもなかなか解けずに苦しんだ。

“私は生きていて良いんだ”、“先の事はむしろ考えないでいい”、そう思えるまでに多くの時間と努力を要した。自己肯定感を高めるために少しの事であっても自分を褒めるようにした。思い返せば、自分を褒める事なんてこれまで滅多になかったような気がする。
決して楽をしようと逃げてきた訳ではない、そう思えるようになってからは随分と気持ちが落ち着いたのであった。

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東京と比べれば自然以外にあるものなんて何もない。一時は森に入って首を吊った死人を探すという奇行に出た事はあったけれども、地元を走る電車を見たところで、まだ東京に居たいつかのように線路上に飛び込みたいという衝動が起きない事はとても大きいと思う。
電車は2,3両編成で30分~1時間に一本だけれども、ピーク時の電車なんてまるで大した事はないし人身事故もないに等しい。人が一極に集中すると、どうしてあんなにも死にたくなるのだろうか? その異常さを受け入れられるほど、私は愚直な人間ではなかったようだ。

君がくれた優しさも あの日くれた思い出も
僕の記憶の中で 燃え尽きて消えてしまうんだ
灰の中に残っている ひとかけらの希望だって
僕は見つけることさえできないまま
冷たい街並みに飲み込まれても 僕らの体は温かいぜ いつだって
生きてゆく 頼まれなくとも 全てを見てきた
この街はいつだって
東京

あの夏以降、その彼には会っていない。連絡も取らなくなって暫くが経つ。すっかり疎遠になってはしまったけれども、いくつか所属していたサークルのうちの一つで出会った訳なので、いずれ何かしらのかたちで顔を合わす事にはなるであろう。

彼は、今も東京で暮らしている。満員電車と社会人生活に辟易としながらも少しでも前向きに人生を歩もうとしているように見える。SNSで繋がっていれさえすれば良い、私たちは本来その程度の関係であるべきだったのかもしれない。──彼は確かに私を支えてくれたけれども、私が彼に与えられるものは何もない。それどころか何も望まれてなどいないような気がしていて、本当はどこかずっと淋しかった。

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この2019年、本当にろくな事がなかったけれども、“私は独りではない”と実感できた事は今後の人生を大きく変えていくと強く思ったのであった。もしも私が本当に独りぼっちだったとしたならば、それこそ思い切って死んでいた事であろう。
それにこれまでの自分の性格がいずれ自らを破滅させかねない事はなんとなく察しがついていた。それがずっと後になるよりかは、まだ柔軟性のある20代でその壁にぶち当たる事となってある意味ラッキーだったのかもしれない。

そして最後に、“東京”はただそこにあるだけだというのに勝手に好かれたり嫌われたりしていてなんだか不憫な街である。それに近い事はあのBUMP OF CHICKENも言っていた。
やはり私の目には、哀しくも東京は独りぼっちの街にしか映らない。常に孤独だからこそ、なんだってあるはずなのに一向に満たされていないような寂しさがそこかしこで漂っている、そんな気がする。

──きっと近いうちに必ず遊びに行くからね。やっぱり賑やかで楽しいなって言いながら、だけど暫くはもういいやうんざりって笑いながらアンタに会いに行くからさ。

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