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読書感想  『何もしないほうが得な日本』 「停滞する現実の正体」

「失われた10年」と、確か最初は言われていた。

 そのうちに、その期間が20年、30年、と伸びて、これからさらに「失われた」年月は伸びそうなのが、バブル崩壊後の、日本の現状のようだ。

 そして、気がついたら、その「失われた」状態に適応しすぎてしまって、今も、電気料金が値上がりする、ということになれば、それが本当に必然性があるかどうの検討の前に、すぐに「どれだけ節電できるか」に話題がうつる。

 ただ、時々、ちょっと思うのは、「失われていない」状態が、本当にあったのだろうか。景気がいいことで覆い隠されていたけれど、そういう恵まれた環境がなかったら、何かがずっと「失われて」いたのではないだろうか。

 実は、「失われていた」のではなく、「変わらなかった」だけではないだろうか。

 この本を読んで、そんなことを考えさせられた。

『何もしないほうが得な日本 社会に広がる「消極的利己主義」の構造』  太田肇 

 この書籍を読んで、ずっと感じていたのは「既視感」のようなものだった。

 個人的には、学生も経験したし、会社勤めも(短いけど)したし、組織に所属しないで働いた期間も、無職で介護に専念する時間もあった。

 そうした中で、ずっと感じていたのは、誰かはっきりとした「悪役」がいないのに、なんとなく手足や体や、何よりも意識を縛るような重い「空気」がずっとあったことだ。それは、組織にいたり、近づくと、より強く感じるから、なるべく遠くに、組織にいないようにしていたのかもしれないけれど、そうなると、安定からも疎遠になる。

 経済が成長している時には、大きな組織にいるほど、その重さが気になりにくいが、ひとたび、景気が右下がりの時代になると、重くて暗い「空気」は大きくなり、それが続いているのが「失われた時代」なのだと思う。

日本の一人あたりGDP(国内総生産)は国際的順位の低下に歯止めがかからず、一九九五年にはOECD加盟国のなかで六位だったのが、二〇二〇年には三八カ国中、二三位と一九七〇年以降で最低を記録した。

日本の国際競争力は、二〇二二年に過去最低の三四位にまで下落した。

 まず、日本の現状が、データを元に語られ始めるが、そうしたことを普段、それほど目にしないのは、おそらくは「現実に直面したくない」という大勢の意識に応えているせいではないかと思うのだけど、この書籍では、「薄々知っていたけれど、正確に分からないようにしていた、本当のこと」が、次々と目の前に突きつけられるような気持ちになる。

官僚主義

 例えば、「官僚主義」が、不信から強化されてしまうこと。

公務員のモチベーションは多くの場合、国民・住民からの承認によって支えられていることがわかる。公務員にとって承認こそ最大の報酬なのだ。

それは、おしなべて彼らの承認欲求が強いことの裏返しである。

 現在は、「承認欲求」という言葉が出ると、つい、それは「よくないこと」といった思いになってしまうけれど、公務員にとっては、「世のため、人のために働き、それによって、適正な感謝を向けられたい」という、ある意味では、立派な「承認欲求」のはずなのに、いつの間にか、それが満たされなくなり、公務員への不信や、批判ばかりが高まってきたのが、この「失われた30年」なのだと思う。

以前、ベテラン消防士から聞いた話が忘れられない。

「公用車で弁当を買いに行っていた」「仕事中に菓子を食べていた」という類いの些細なことについても市民から役所に通報が入る場合がある。すると上司から型どおりの注意を受ける。火災現場でギリギリの判断が迫られたとき、クレームを受けた経験が頭に浮かび、火のなかに飛び込むのを躊躇することがあるというのだ。もしかすると、その陰で人命が左右されているかもしれない。

 それは、静かな怖さがあるエピソードだったし、そういったことから、「官僚主義」が加速していくようだ。

相互不信に基づく関係の行き着く先は、いわゆる官僚主義である。市民に対しては形式的な手続きを求める一方、自らは最低限の仕事しかしないといった姿勢がそれだ。規制を盾に身を守る官僚主義は、公務員に対するバッシングや厳しい要求から身を守る最強の防御手段なのである。そのため世間に批判や要求が強まるほど、公務員の官僚主義的な振る舞いが目につくようになる。 

たとえば不祥事が明るみに出ても、上司は「部下が勝手にやったことだ」と言い逃れをし、部下はそもそも権限がないので責任を問われない。また組織の重要な意思決定も、いつだれが決定したかわからないケースが現実にある。あえて「犯人」を探せば、その場の「空気」だったという笑い話のようなことが起きるのだ。いわば「集団的無責任体制」である。

(『何もしないほうが得な日本』より)

 公務員だけが「官僚主義」で、「集団的無責任体制」になるわけではないのは、この30年の様々な企業の不祥事のことを思い出しても、うなずけてしまうことではないだろうか。

 印象に残っているのは、立ち上がって、中高年の男性たちが、一斉に頭を下げる映像だけで、その後、具体的に改善されたかどうかも分からず、場合によっては、再び、不祥事を起こしてしまう組織すらあった。

 だけど、どうして、そんな体制になってしまうのだろう。

「見せかけのやる気」

 リスキリング、という言葉もそうだけど、今は、一つの組織に留まることは「古い」などと言われている。チャレンジすることは、「良いこと」と、「常識」のように語られている。

 ただ、そうしたことに関して、実際は、社員の側は、どのように考えているのか。それが、アンケートなどで、明らかになっていく。

会社側の期待と裏腹に、社員は冷静に損得を考え、挑戦するのを控えている様子がうかがえる。  

 おそらく、個別に聞けば、「挑戦に慎重になる」のは当たり前だという答えが返ってくるのも何となく予想もできるものの、それが、あまり表面化しないのは、無記名のアンケートではなく、例えば、顔も名前もわかる状態で、これからの「チャレンジ」について聞いたら、おそらくは、声を揃えて、肯定的な答えが返ってくるのが予想できるからだ。

 こういった傾向は、この30年でも、特に組織内では、ずっと変わらないような気がする。それが、本音」と「建前」という言葉で、常識的に言われてきたから、逆に言えば、表面的なことと、心で思っていることが一致する方が、少数派のように思ってきた。

 会社、より具体的にいうと上司や人事部に「やる気」のあるところをアピールする姿は、会社はもとより、たいていの組織のなか、さらにいえば日本社会全体にみられる現象といえる。私はそれを「見せかけの勤勉」と呼んでいる。会社のなかでは、必要がなくても周りが残っていたら残業したり、有給休暇をほとんど取得しなかったり、存在感を示すため会議で意味なく発言したり、といった行動がその例である。

 実際、職場では口角泡を飛ばし、侃侃諤諤の議論をしていても、一歩職場の外に出たら仕事の話や自己啓発の情報などにはほとんど興味を示さない人が多い。
 見かけ上の「やる気」や自己陶酔と本物の「やる気」、客観的な成果とは必ずしも一致しないのだ。それを考えたら、メンバーどうしの議論や相互作用を重視する日本式の知識創造も、その効果を過大評価しないほうがよいかもしれない。 

 そもそも日本では企業側が人事に大きな裁量権を握っており、昇給や昇進・昇格はもちろん、人事異動、転勤も原則として人事評価にかかっている。ときには辞令一枚で本人はもちろん、家族の生活まで一変する。
 しかも日本では個々人の仕事の分担や責任範囲が明確でないので、アウトプットすなわち仕事の成果や果たした役割で客観的に評価することが難しい。そのため働いた時間のようなインプットで評価せざるを得ない。けれどもホワイトカラーの仕事は労働時間だけで貢献度を推し量ることができないので、同じインプットでも「やる気」をはじめ抽象的な態度や意欲で評価することになりやすい。だからこそ社員は「やる気」があるところをアピールしようとするのである。
 それが必ずしもほんとうの意欲を表していないのは、各種の調査結果から見ても見て取れる。象徴的なのが「ワークエンゲージメント」の極端な低さだ。
 ギャラップ社が二〇一七年に行った調査によると、日本では「熱意がある」(engaged)社員がわずか六%に過ぎず、一三九カ国のなかで一三二位になっている。同様に調査は他の機関でも行われているが、いずれの結果を見ても日本人のワークエンゲージドは主要国のなかで最低水準にある。
 ただ問題の深刻さは、エンゲージメントの低さそのものより、それが表面化しないところにあるのではないだろうか。

(『何もしないほうが得な日本』より)

 「ワークエンゲージメント」は、仕事への「やる気」に近い意味合いがあるのだけど、それが国際的な比較でも、その「やる気」がとても低いことがデータによって明らかになったことは、ひそかに常識として定着してきているように感じる。だけど、表立って語られることは、まだ少ないように思う。

 たぶん、そういうことも、問題なのではないだろうか。

何もしない方が得な国

 なぜか、人に優しい国のように、自己評価してきた部分があるのだけど、実は、人に冷たい国だと考えた方が、今の状況に納得がいくように感じる。それと同様に、勤勉だと思われていたのが、実は、そうでもない。そういう「表と裏」があるのが、日本という国の現実だと思うと、かなり気持ちは暗くなる。

 そして、もちろん、そういったことを他人事のように語れないけれど、でも、それが意志を持って作り上げたのではなく、「その方が得」ということで、なんとなく、だけど、思った以上に強力に維持されてきたシステムだと思うと、かえって、それを変えることは不可能ではないか、という思いにもなる。

 このような人事考課制度のもとでは、たとえば傑出した能力の持ち主や、突出した成果を挙げた人も、全体の上位一割にギリギリ入った人も同じS評価になる。(中略)無難に高評価を稼ぐ受験秀才型の人が総合的に高く評価されることになる。逆に専門能力に秀でた人や多大な貢献をした人が、それに見合った評価を受けられない場合が出てくる。
 ちなみにこのような評価制度は学校の成績をはじめ、さまざまな評価や審査に広く用いられている。私も学会賞の審査員などをしているとき、同じような不合理さを感じることがある。ずば抜けて独創的な研究でも、先行研究がくまなく渉猟されているか、実証の手続きが丹念に記述されているか、文章に乱れがないか、といったところに少しでも欠点があると総合点が低くなり、受賞を逃すケースがある。結果的に平凡だが大きな欠点がない研究が高い評点を獲得し、受賞することになりがちだ。
 要するに減点主義で評価すると、リスクを冒して挑戦するメリットがないのである。

 日本企業には、「仕事は組織でするもの」「個人プレーは慎むべき」という考え方があり、個人の名を表に出すことは控えられてきた。したがって顧客など社外からはもちろん、社内でも他部署からはだれがどんな仕事をしているかが見えにくい。ましてコロナが広がって以来、社員はマスクをつけてほんとうの顔まで隠すようになったので、いっそう個人が見えなくなっている。
 顔が見えなければ、積極的に仕事をしても外からは認められないので、何かをしようという意欲が湧きにくい。「何もしないほうが得」だという意識がいちだんと強くなっていくのである。

このように「何もしないほうが得」な数々の仕組みの背景には終身雇用という大きな制度の骨格があり、二重、三重にたがをはめていることを見逃してはいけない。

いずれにしても「働かないオジサン」問題は大部分が制度の産物だといえよう。

 それは、会社という組織だけではなく、学校も、PTAも、町内会も、基本的には変わらない、という指摘がされている。

純粋な共同体ではなくメンバーの利益を優先する「利益共同体」に近い。

 企業を念頭に置きながら、「利益共同体」と化した組織で起きる象徴的な出来事を振り返ってみよう。
 突出した成果をあげたり、抜け駆けしたりすると周りが迷惑するので「出る杭」は打たれる。逆に波風を立てず、分に甘んじることがよしとされる。組織の不正を告発することは短期的には会社に打撃を与え、社員にとっても負担になる。そのため人間関係から疎外されるなど無形の制裁が加えられる。
 そのような状態では会社側も利益が上がらず、経営がジリ貧になる。それでも事業内容の見直しや撤退の決断をしない。また組織の見直しも、人事制度の抜本的な改革も行わない。あえて波風を立てなくても、「その場しのぎ」で当面はなんとかなったからだ。
 企業以外、たとえば小学校から大学にいたる教育機関やPTA、町内会などの組織においても同様である。

 このような組織は、特殊な条件のもとでのみ生き残ることができる。それは組織が「閉鎖系」(クローズドシステム)すなわち外部環境の影響を受けない場合である。
 しかし実際は、企業にしても学校にしても外部に開かれた「開放系」(オープンシステム)である。しかも市場や技術の変化はますます激しくなり、グローバル化やボーダレス化にともなって絶えず競争にさらされるようになった。  

(『何もしないほうが得な日本』より)

 それが現在まで続く「失われた30年」のはずだから、この組織のシステムそのものを変える以外に道はないはずなのだけど、その大事なことは、ほぼ何も変わらないまま、ずっと来てしまった印象がある。

 それは、江戸時代に鎖国の年月が長かったため、閉じる癖が伝統的になっていたのだろうか、といった気持ちにさえなってしまう。だけど、それはやや妄想的だとしても、「失われた30年」の始まる頃に、すでに大人だった自分にも責任があるが、「変わらない、変わりたくない」という共通意識だけは、はっきりとではなく、潜在的に、とても強固だったと思う。

利己的なシステム

「何もしないほうが得」。そう決め込んで自ら行動しようとしない。このように自分の利害を行動基準にすえるのは広い意味での個人主義である。さらに、考えようによれば極めて利己的な態度だといえる。
 まさに、「消極的利己主義」という表現がピッタリではないだろうか。自分さえよければ、他はどうでもよいのである。

対立や不正が「あってはならない」という規範意識が、「ない」「起きない」という事実誤認と混同されている。いや、しばしば意図的にすり替えられている。

「公」の名を借りた「私」の暴走は、規律やモラルのブレーキをたやすく外してしまう。かつてバブルの時代には、接待に名を借りて高級料亭やバーで豪遊する「社用族」の姿がしばしば目撃されたものだ。家族に対しても、深夜の帰宅が続こうが、週末にゴルフに出かけようが「接待」という免罪符が使えたのである。
 それでも「公」を装っているだけに、「私」の暴走は止まらない。

 こうした指摘や分析を読むと、あの事件も、あの不祥事も、あの隠蔽も、冷たい決定も、信じられないような「外」に対する傲慢さも、必然だったのではないだろうか、と思えてきて、なんだか絶望的な思いにもなる。

「何もしないほうが得」という消極的な利己主義がまん延したのは、全体と個の利害が一致しているという暗黙の前提が崩れているにもかかわらず、その事実から目をそらしてきたからである。 

(『何もしないほうが得な日本』より)

 そして、もちろん、どうすればいいのか。という具体的な提案もされているが、それには、本当に根本的な考え方から変えないと、無理だろうという気になり、やっぱり、「何もしない方が得」という「穴」に引きずり込まれそうになる。

 それでも、まずは、現状が、どうしてこうなのか?を、なるべく正確に分かるところから始め、現状を変えるためには、必読の一冊なのは間違いない。


 これから先、逃げ切るだけではなく、きちんと未来に、それも少しでも真っ当な将来に、主体的に参加したい、という気持ちがある大人には、ぜひ、読んでいただきたいと思っています。

 これから先に、どうしていけばいいのか?
 そんな不安を持っている方であれば、年齢問わず、手に取り、全部を読み通していただきたいとも考えています。


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(他にも、いろいろなことを書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。





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