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“嫌い”のその先の、“好き”。

今日、インスタで
とある作品が「好きではない」と発信をした。

わざわざ人に言うことではない。
そんなことはわかってる。

けれど、直近で映画化されたその作品の
原作の作家さんを愛して止まないことを
日頃から誰にも聞かれていないのに
豪語している甲斐(?)あって、
「もう観ましたか?」
「観に行かないんですか?」
と複数件のコメントやdmをもらっていた。
そのこと自体は嬉しくて涙が出そう🥲

という次第で、これはごまかすのではなく
わたしの意志による選択なのだと
説明した方がフェアというか誠実というか
そんな気がした。


たったひとつの投稿。
たった24時間のストーリーズ。
それでも、すごく緊張する。
「嫌い」を発信するというのは。

基本的に趣味垢って「好き」で繋がるもので
好きなものを愛でていたい
いいよね、よかったよね、って言い合いたい。
そういう雰囲気がある。

そしてもちろん、
わたしが苦手と思った作品にも
その作品を「好き」と思う人は当然いる。

好きなものを愛でること、
誰に頼まれずとも勝手に宣伝すること、
を特技としているわたしの
「好きだった」「最高」「愛おしい」
を待っていてくれる人も、
とてもありがたいことに、いる。

そんな中で、「嫌い」とこそ言わないものの
「苦手」「好きじゃなかった」というのは
やっぱり本当に勇気がいるし緊張するのだ。

それでも、
その作品を受け入れられないことと
その作家さんが大好きな気持ちは
矛盾しないと思っていて、共存できること
それをちゃんと示したかった。

そう思い、何度も推敲した文をアップした後
少なくない数のいいね、
納得・理解のコメントが届いて
少なくとも今回は正しく伝えられた気がして
本当に、本当に安心した。


そして、推敲しながら思った。
わたしたちが日頃言っている“好き”は
“嫌い”とまではいかなくとも
“好きじゃない”ものがあって
初めて成り立つものなのではないか、と。

マイナスの感情はSNSと相性最悪だし
SNSでなくとも表に出していいことはない。
けれど、
自分の中で抱く気持ち・感じた違和感には
“好き”と同等の価値がある気がした。

だって、どこのケーキ食べても美味しい
って言ってる人の
勧めるケーキ屋さんってちょっと信用し難い。
人は誰しも、その人一人ひとりの
考え方や捉え方、感じ方があって好みがある。
好き嫌いがある。
だから、“好き”という感情は
これほどまでに尊いものなのかもしれない。

これからも変わらず、
嫌いを積極的に発信することは無論ないし
発信せざるを得ないときには
やっぱりすごく緊張もすると思う。

でも、発信していること
言葉にしていること、口にしていることが
その人のすべてではないから。
その感情も手触りも、わたしだけは
これからちょっとだけ大事にしてあげたい

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