世界/日本文学の「晩年」を読む

扱うのは
J・M・クッツェー「遅い男」
フィリップ・ロス「ダイング・アニマル」
レイモンド・カーヴァー「使い走り」
谷崎潤一郎「瘋癲ふうてん老人日記」
大江健三郎「晩年様式集イン・レイト・スタイル
泉鏡花「縷紅新草るこうしんそう
どれか一つ興味があるなら、そこだけでも気軽に読んでほしい。


J・M・クッツェー「遅い男」―煉獄を巡るポール・レマン―

〈エリザベス・コステロもの〉

この作品はクッツェーの連作「エリザベス・コステロもの」の一つ。(過激な動物愛護精神を持つ)女性作家エリザベス・コステロが主役・脇役として登場する作品だ。
以前「モラルの話」を扱った。参考になるなら読んでほしい。

〈あらすじ〉

「主人公はポール・レマン―六十代の独身男性。自転車の事故で片脚を失ってしまう。医師は義足を勧めるが彼は不自然だと拒否し、アデレード(※南オーストラリア州の州都)の自分のフラット(※一階建てのアパート)で要介護の生活を始める。しかし福祉事務所から紹介される介護士の年寄り及び子供扱いに苛立ち続けていた。そこへマリアナ・ヨキッチという介護士が送られてくる。仕事熱心で美しいマリアナに、ポールは惹かれていく。だが彼女はすでに結婚し子どももいる身。それでもポールはマリアナを愛そうとする。そこに見知らぬ女性作家(エリザベス・コステロ)が訪れて ……」

〈感想―ジコチューの老害?―〉

見かけより難解な作品。
まず、あらすじの通りポール・レマンという老人が(事故で)片足を失うのは事実。ただしこの身体喪失の描写は意外とあっさり扱われる。「老年の身体喪失」―シリアスな物語を想像していたがどちらかと言うと、老いらくの恋に振り回される老人を扱ったスラップスティックコメディな印象さえある作品だ。

ポール・レマンには自分の人生が晩年を迎えた自覚が致命的に欠けている。何しろ彼が思いを寄せる介護士マリアナ・ヨキッチは中年の女性。これだけ年の離れた「ジジイ」を相手にするわけはない―それでもレマンは彼女が振り向く望みを捨てられない。彼にとって人生のプレイヤーは常に彼自身だし全ては彼を中心に動いている。それがレマンを苦しめ続ける。彼は自分の疑いから抜け出せず自分の期待を捨てられない。

〈信頼のできない語り手〉

あらすじに「マリアナ・ヨキッチ」は「仕事熱心で美しい」と書いた。
がこれは事実を百パーセント伝えていない。というのはこれが彼女に恋をしているポール・レマンの目線から見た印象であり、エリザベス・コステロには彼女は単なる中年女だと小馬鹿にされている。ポール・レマンは「信頼のできない語り手」だ。マリアナへの下心から彼はヨキッチ家―クロアチア人一家とされるがそれも本当かどうか―と様々な関係を持つことになる。そしてヨキッチ家の印象は「聖家族」と、ポール・レマンを金銭的に搾取する「移民ども」の両極を行き来する。どちらが正しいのかレマンにも誰にもわからない。

〈メタフィクションの必要性〉

筆者が苦しんだのは本作にエリザベス・コステロを登場させる必要性が解らないこと。
「モラルの話」のコステロの異様な切れ味を求めて読んだのだが、今回のコステロはポール・レマンとどこへも行けず立ち惑うばかりで、おなじみの過激な動物愛護的発言は鳴りを潜めている(修正:「モラルの話」の方が後だった)。
また本作でコステロは登場するなりポール・レマンに「遅い男」の冒頭を朗読してみせたりする(一種のメタフィクションだがこれを導入する必然性がわからなかった)。

〈物語の余白〉

「遅い男」のストーリーには極めて余白が多い。例に挙げるとポール・レマンは一度離婚しているらしいが作中で詳しくは扱われない。
他に、ポール・レマンはコステロの仲介で視覚障がい者の女性マリアンヌを引き合わせられる。そして二人は一度だけ関係を持つ。
唐突な―ほとんど作品から浮いているように見えるこの挿話はどういう目的があったか。こうした余白を考えながら読むべき作品かもしれない。

〈煉獄と縁〉

(あくまで筆者の独断だが)この作品はポール・レマンの死後―煉獄世界を扱っているのかもしれない。地獄に行くほど悪くもないが天国に行くほど善くもない人間が己の罪と向き合う場―ヨキッチ家もマリアンヌもコステロもポール・レマンにあること―彼が生前見落とした何かを気付かせようとしているのかもしれない。

この男、ポール・レマンには作中でまだ見えていない領域がある。だが見出した新たな視点がまた揺らぐのも目に見えている。
そのあたりを仏教だと「縁」という概念で説明する。世の中それ自体として成立するものはない。すべてはお互い関係性の中にある。だから確かなものも揺るぎないものもこの世には何一つとてない(崩壊する家族を扱った小島信夫作「抱擁家族」を連想する)。
揺らぎ続ける世界で全体像を持ち得ない男たちは必死に闘うのだ。悲しいのは―おかしいのは―彼らが自分たちは何を相手にしているのかよく知らないことにある。

〈結末〉

筆者の話があちこちに行ってわかりにくかったはず。実際本作に普通の意味のストーリーテリングはないのだ。物語はレマンとヨキッチ家、そこにエリザベス・コステロを加えた三者間で渋滞し先に進まない。
最後レマンはヨキッチ家にこれ以上深入りすることを諦める。エリザベス・コステロとも袂を分かつ。しかしそれで彼に何が残されるのか。晩年の孤独と死だけではないか?
ナタで切り落としたような結末だった。

余談1。会うたび印象の変わる女性たちに(明に暗に)自己を問われるこの作風は村上春樹作「ねじまき鳥クロニクル」を連想させる。
余談2。移民が介護業界で働いている―この社会的な構造のもたらす暴力性に対してポール・レマンは何も感じていないようだ。
またレマンはヨキッチ家の息子に奨学金を出すのだが、奇妙に押し付けがましく感じる。
レマンが自分は(構造的)強者であることをまるで意識していない。金銭の授受の持つ固有の暴力性も彼は意識しない。
余談3。ポール・レマンはマリアナが来る前の介護士に子ども扱いを受ける。そこで彼のペニスが「ぽこちゃん」と呼ばれていたのは笑った(ただ実際凄惨なシーンでもあるのだが)。原書ではどう書かれていたのか。

フィリップ・ロス「ダイング・アニマル」―デイヴィッド・ケペシュ、老年の性と死を往く―

〈あらすじ〉

デイヴィッド・ケペシュは文化批評家。性に奔放で、老いてなお複数の女性(主にかつての大学での教え子)と気楽な関係を保っている。ところが彼はキューバ出身の魅力的な女性コンスエラにのめり込んでしまい……

〈晩年の性〉

まず151ページと中編のボリューム。そして老いらくの恋という点で「遅い男」とつながるがより性的な色合いが強い―その性が滑稽さを伴うところも含めて。
まずこの場面。ケペシュの中年のセックスフレンドの一人、キャロリンとケペシュがゴミ箱から見つかったコンスエラ―ケペシュの現役大学生のセックスフレンド―の使用済みタンポンを巡って浮気したのかどうか争う。
また別の場面。ケペシュはコンスエラの元彼氏への嫉妬心から彼女の経血を啜る。スカトロジーに至る性的フェティシズムを連想させる描写ではないか。(谷崎潤一郎の後期短編「過酸化マンガン水の夢」で、糞便が「シモーン・シニョレ(注:フランス女優)の悪魔的な風貌」に変化する下りを付記しておく)

〈滅びゆく肉体〉

小説の最後にコンスエラ―三十代になっている―は再びケペシュを訪れる。彼女は乳癌になっている。乳房の一部を切り取らなければならない。ケペシュは彼女の癌に侵された肉体を愛撫する。(この後コンスエラは結局乳房のほとんどを切除する)。
ベトナム戦争体験を統合した大作、ティム・オブライエン作「ニュークリア・エイジ」にも似た話があった。そちらでは唇に悪性の腫瘍ができる。
どちらも人間の体の弱さが剥き出される瞬間、死が肉体の領域から個人を訪れる瞬間の描写として記憶に残っている。 

なおタイトルの「ダイング・アニマル」はイェイツの「ビザンティウムへの船出」の詩句「死を背負う獣性ダイング・アニマル」から取られている(本作の内容を見るに「獣性」とはそのまま「性欲」だろうか)。蛇足として、コーマック・マッカーシーの極めて暴力的な小説「ノーカントリー・フォー・オールド・メン」(訳:ここは老人の住める国ではない)も同一詩句から。

余談4。訳語に「瘋癲老人」と出てきたのだが上岡氏は「瘋癲老人日記」を意識されたのだろうか。ただ文化人として比較的わきまえているケペシュに比べると本家の卯木老人は数段始末に負えない。

レイモンド・カーヴァー「使い走り」―顔のある他者―

まず初めに。レイモンド・カーヴァーは本作執筆時49歳であり本作で扱われるチェーホフの没年は44歳。どちらも壮年期なのだが、早い晩年を引き受けた気配がそこにある(『彼は医者によって癌を宣告されていた』解題p257〜258)ため例外として扱う。

〈あらすじ〉

チェーホフは病床で死の淵にある。彼の死後二人きりになったオリガ夫人の下にホテルのボーイがやってきて―

〈感想―優しく哀しい「ばらけ」のような感覚―〉

訳者村上春樹氏の言葉を借りると『優しく哀しい「ばらけ」のような感覚』のある作品。小さなストーリーが集まり大きなストーリーを作っている。そこで二つ気付いたことを書く。
その一。自然なユーモアの感覚。たとえば、病床のチェーホフをトルストイが訪れる場面(少し長いが段落ごと引用する)。

トルストイはウールのマフラーを取り、熊皮のコートを脱いだ。そしてチェーホフのベッドの横の椅子に腰をおろした。チェーホフは薬物療法を受けていてしゃべることを禁じられており、ましてや会話を交わすなどもってのほかであるというようなことは、彼にはまったく気にならないようだった。チェーホフはただ唖然として、伯爵(筆者注:トルストイのこと)が魂の不滅性についての自説を開陳するのをじっと聞いているしかなかった。その訪問について、チェーホフは後にこう書いている。「彼はこう語った、我々はすべからく(人も動物も同様に)ある原則(理性や愛といったもの)の中に生き続けるであろう。しかしその原則の本質や目的は我々には謎である、と。私にはそのような類の不滅性は意味を持たない。私はそういうのが理解できない。そしてレフ・ニコラエヴィッチは私がそれを理解できないことにびっくりしてしまったようだった。」

村上春樹翻訳ライブラリー「象」p204〜205

その二。やはり同様の場面から。優れた小説は私たちに実感を与えてくれる。「そうだ、私たちの(現に生きる)この世界ではこういうことが起きるんだよなあ」と。病床にありがた迷惑な客が来て「自説を開陳」するようなこと。
それは感情の共有を超え人と人が同じ世界に生きることの確かめになるのではないか?

〈カーヴァーの小説には顔がある〉

ここで顔は表情の描写の上手下手ではない。顔とは人間の人間らしさが立ち現れる―人間の弱さ(≒人間らしさ)が表現される場としての顔。

話が先走った。本作の肝について。やはり村上氏の解説から借りる。『(略)カーヴァーは、このイノセントにして凡庸なボーイの視点を一時的に借りてくることによって、チェーホフ(略)の死を(略)リアルで等身大のものに転換して』いる。『彼は死ぬもの(『死ぬもの』強調点)であり、同時にその死を見るもの(『見るもの』強調点)であった。』筆者も全面的に同意する。

この小説の前半は『(略)ジャーナリズム』的に『抑制された』チェーホフの臨終の描写が続く。ところが後半、突如『無意味な脇役』としてホテルのボーイが出てくる。彼はすでに死んだチェーホフと二人きりにしてもらったオリガ夫人の下に「三本の茎の長い黄色い薔薇の花をさした磁器の花瓶」を持ってやってくる。
当然、夫を亡くした夫人と「黄色い薔薇の花」はまるでそぐわない。ここでボーイは事情を何も知らないまま訪れた"邪魔者"に過ぎない。

にも関わらず彼は必死に振る舞う。少しでも彼女に対して正しいこと、善いことを成そうとする(分からない、彼はあらゆる意味で単なる気まずい訪問者以上の何者でもないのかもしれない、ただあくまで筆者はこうして読んだというだけだ)。
氏の一つ前の短編集収録の「ささやかだけれど、役に立つこと」で誕生日に子どもが交通事故に遭った夫婦に不審電話をかけ続けるパン屋を思い出させる。彼らにとって見知らぬ他人―第三者に過ぎない彼らのような存在を、普通小説家は作品に取り込まない。
ところがレイモンド・カーヴァーの場合彼らは作品に積極的に関わってくる。
編集者ゴードン・リッシュによって「ささやかだけれど、役に立つこと」のパン屋と夫婦の関係が大きく削られ成立している作品「風呂」はその深みや作品の柄の大きさで「ささやかだけれど、役に立つこと」に及ばない。

レイモンド・カーヴァーにおいて、第三者―「他人」は顔を持っている。人間的な弱さ―人間らしさそのものとしての「顔」を持って、彼らはそこにいる。
「若者は頬が熱くなってくるのを感じた。」「額に汗が浮かんでくるのが感じられた。彼は何処に目をやればいいのかわからなかった」
「若者の顔は青ざめていた。」

谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」―人間、このグロテスクなもの―

〈あらすじ〉

卯木老人は息子の嫁、颯子に対し激しい執着心を抱いている。颯子も彼の性的嗜好―マゾヒズムを利用して卯木老人に高級な宝石を買わせるなどやりたい放題。彼らの行きつく先は―

〈感想―人が虫けらになる瞬間―〉

予想とだいぶ異なる作品だった。
有名な下りは卯木老人が颯子の足の拓本を採って仏足石の代わりにしようとする、そしてその死後の妄想―

泣キナガラ予ハ「痛イ、痛イ」ト叫ビ、「痛イケレド楽シイ、コノ上ナク楽シイ、生キテイタ時ヨリ遥カニ楽シイ」ト叫ビ、「モット蹈(フ)ンデクレ、モット蹈ンデクレ」ト叫ブ。………

こうした、死後もなお性の快楽を味わおうとする老人の命に対する執着の描写だろう。
ただ、今回読んで記憶に残ったのはむしろ卯木老人の抱える奇妙な空虚さだった。これは卯木老人の日記だけ読んでいるときは感じない。
しかし終盤、看護婦と医師及び彼の娘の五子の手記を読むと作品の印象はガラリと変わる。
颯子は決してサディズムの持ち主ではない。彼女は常識的な若婦人に過ぎない。日記のすべては老人の妄想だったのだ。

ドナルド・キーンが一つ前の長編「鍵」の感想で"昆虫の生態を読まされているような薄ら寒さがあった"(正確な引用でない)と言っていたがそれは「瘋癲老人日記」にも当てはまる。性欲に振り回されそれを生きがいとする老人。ピカソの(二次大戦期の)キュビズム絵画を連想させる。人間のある部分がグロテスクなほど拡張されている。それを人間とは認めたくないのに認めざるを得ない。
昆虫の生態に薄ら寒さはない。他ならぬ人間が単なる昆虫のように振る舞うこと―そこに薄ら寒さがある。
驚くほど不気味で乾いた暴力性さえ感じる。サディズムとマゾヒズムを扱ったにせよ、「痴人の愛」や「春琴抄」とは本質的に異なる作品だ。

余談5。棟方志功のモノクロの版画は作風とよく合っている。

大江健三郎「晩年様式集イン・レイト・スタイル」―人間は弱い。だから勇気を持てる。―

〈あらすじ〉

作家自身を思わせる主人公の長江古義人(大江健三郎のパロディ)は東日本大震災後の動揺が続くなか「晩年様式集(イン・レイト・スタイル)」と題する文章を書きだすも、妻、娘、妹の「三人の女たち」から反論が送られる。彼らはお互いに理解し合えるのか、あるいは破綻するのか―

〈感想―「晩年様式集」に躓いた凡夫の―〉

私は大江健三郎氏を「氏」と他人行儀に呼ぶのが嫌で「大江さん」と呼んでいる。実際ある時期の作品を読んだ人なら私の感覚は伝わるはず。
だが、それほど親しみを持っている筆者にも「晩年様式集」は良い作品とは思えなかった。せいぜいが「敢闘賞」止まりの―とうの昔に消費期限の過ぎた作家の小説だと。こう書くときつすぎるが……

理由は二つある。一つが過去作からの引用が(いつにもまして)多いこと。はじめに読んだとき、「こんなに引用するなら新作を書く必要がどこにあんだよ」と思ったことを覚えている。
もう一つは作中の長江古義人があまりにも弱いこと。特に東日本大震災を扱うというのに何も新しい言葉を紡がずひたすら放射能汚染に絶望する姿は、読んでいて正直イライラした。やはり私は「おいおい、今さらこんな爺さんを書いてどうすんだ」と思った。

今思うとどちらも愚かな誤りなのだが、初読の方が浅はかな筆者同様に(思わず)嫌悪感を感じたり戸惑いを感じたりする作品なのも事実と思う。そこで今回は不肖ながらこの筆者が「晩年様式集」に躓かない方法を書いていきたいと思う。

まず、ふんだんに行われる過去作の引用。これは―諦めてほしい。一応私も(それなりに)読んでいるのでここで全てあらすじや主題を説明してもいいが、その場合記事の長さは当初の五倍を見込む必要があるだろう。事実このスピードの速い現代社会に生きる読者にこれだけの過去作を読め、さもなくば「晩年様式集」を読む資格なし!というのは……無茶である。

ただ、これが大江さんの結果的に最後の作品だったことを考慮してほしい。これまで書いていた作品をまとめ、ひとまず「落とし前をつける」必要があったと思うのだ。作品のいくつかはあらすじが紹介されもする(それでも全作ではないのだが)。
もしどうしても読めなければ―特にシマ浦と塙吾郎の下りはきついはずだ―飛ばし飛ばしでもいいと筆者は思う。あれもこれも読め読めというのは辛く楽しい読書にはならない。(彼らの前日譚が読みたいと自発的に思った人は「取り替え子チェンジリング」を読んでくれればいい)

次に、長江古義人の弱さが「イライラする」ことについて。これはあらすじも悪い。「長江古義人は、三・一一後の動揺が続くなか「晩年様式集」と題する文章を書きだす」と言われると、特に大江さんの過去作を知る人ほど、最後の最後に豊かな想像力を使って東日本大震災という大きな災害と向き合う傑作―連合赤軍や核戦争の予感に対してかつてそうだったように―をイメージしてしまう。
それが、現実には後期高齢者の長江古義人が「テレビニュースの現地中継」を見ては「階段の踊り場で」「ウーウー泣いてい」る―その徹底した「弱さ」が書き出されるに過ぎない。

私がイライラしたのもここで、なぜ大江さんが最後の最後にこんなものを書く必要があるのかわからなかったのである。かつて筆者を魅了した四国の森の豊かな伝承や御子息のアカリさんとの魂の交流、世紀末的に飛躍する想像力―それらの姿は一つも見当たらない。言い方は悪いがこんなもの、素人でも書けそうではないか。
それが私が最初に「晩年様式集」を―ページをバサバサさせながら―読んだ最初だった。

〈「晩年様式集」の「弱さ」について〉

ここまでネガティブ・キャンペーンしかしていないので補足すると本作にも豊かな描写は―注意深く読めば―確かにある。だがその前に、「晩年様式集」の「弱さ」について少し話したい。自説を喋るつもりはない。ただ原罪抜きでキリスト教が成り立たないように、「弱さ」抜きで「晩年様式集」は成り立たないと思うのだ。少し耳を貸してほしい。

まずこの小説に登場する人物は、そのほとんどが「弱者」だ。老人、女性、障がい者―「晩年様式集」は「弱い」人々の物語であり、作中、長江古義人(≒大江健三郎)の過去作が否定される―青年あるいは壮年期の男性という(結果的に)「強者」の作品が―ことで「弱さ」は一層前に出てくる。

〈個人的な体験〉
私の知り合いに老人嫌いがいる。彼は老人を見ると「ほんとしょうもない」「見てると(動きがトロくて)イライラする」と言う。
彼は他の面で真っ当な人だが相手が老人となると嫌悪感を隠そうとしない。
あるいは「ぶつかりおじさん」だったり―私も一度突き飛ばされたことがある―「生活保護は甘えだ」と言ってみたり―私たち男性というものは(あくまでも傾向として)「弱者」に対する攻撃性を持っているのではないか。

〈攻撃性はどこから来たのか〉
では、私たち男性の「弱者」に対する攻撃性はどこから来たのか。私はそれを社会あるいは国家の抑圧から見る。
韓国では近年、女性蔑視が社会問題となっているという。話題となった「82年生まれ、キム・ジヨン」や「僕の狂ったフェミ彼女」―フェミニズム小説の盛り上がりはその反動と聞いた。
原因の一つに徴兵制がある。男性のみが兵士として徴兵される―その不公平感が女性への憎悪に置き換わっていると。本来それは彼らの所属する社会や国家への申し立てにならねばいけないはずだが……他人事ではない話だ。

本題に戻ると、社会や国家は男性性から「弱さ」を奪う。これが筆者の結論だ。もちろん徴兵制のように明白なものからサラリーマンのスーツ(これに関しては女性性も)のように大したことなく思えるものまで、しかしそのどれもが「弱さ」を奪う装置として働いている。
昔フーコーという哲学者が言っていたことのうろ覚えだが、近代社会あるいは国家が人間を統治するとき、支配はまず肉体から行われるという。小学生の体育座り、体に合わないスーツ、兵隊の一糸乱れぬ行進―それらは人間の肉体の持つ「弱さ」の隠蔽なのだと。

〈壊れものとしての人間〉
このとき、「晩年様式集」において肉体はどのように書かれているか。たとえば長江古義人の妻の千樫は小説の後半「リウマチ性多発筋痛症」になる。以下はその場面。

駆け寄って来たシマ浦(注:古義人の知人女性)が私を押しのけて、千樫をゆっくりゆっくりソファに倒れ込ませようとする。千樫はなお押さえるべくつとめているはずだが、私のかつて聞いたことのない大きさの悲鳴をあげた。

「晩年様式集」p322

あるいは長江古義人が「原発ゼロ」を目指す人々のデモに参加する場面。

ともかく、日頃はデモ隊の先頭から一定の距離を置く街宣車のスピーカーがこちらの頭上に向かっており(その音の最下端に私がいただけとしても、こう感じた)私は二時間ほどそれをあびせられ続けた。(略)
(略)日比谷公園に着いて流れ解散すると、まさに老人のヨロヨロ歩きでベンチにへたり込んだ。

「晩年様式集」p392

その後古義人は帝国ホテルの医務室の「ベッドに横たわるか横たわらないかという呼吸で、気を失」う。翌日もひどい耳鳴りに襲われる。
「晩年様式集」の人間の肉体は―登場人物が老人だからという以上に―「弱い」ものとして描き出されている。
ここでもう一度、愚かな筆者が躓いた冒頭の下りを書く。
後期高齢者の長江古義人が「テレビニュースの現地中継」を見ては「階段の踊り場で」「ウーウー泣いてい」る場面。

今、これを読んで筆者は少しもイライラしない。むしろ「がんばろう東北」「がんばろう日本」といったスローガンや「三・一一のあと、自分もこんな風に生きていていいのかなって思ったんです」―災害を彼らの人生のイベントの一つのように扱う言葉。それらに対して、「テレビニュースの現地中継」を見ては「階段の踊り場で」「ウーウー泣いてい」る長江古義人の姿は果たして単なる「愚かな老人」に留まるものだろうか?
(もしまた同じような災害が―想像するのも酷いことだが―起きたなら、私はどんなスローガンも希望も喋らず「ウーウー泣」く老人に倣って「ウーウー泣」く青年でありたい)。

話が逸れた。「晩年様式集」はタイトル通り「晩年」の大江さんが、自らの弱さを晒してくれた小説なのだと思う。第一特別な想像力や世界を変える力がたった一冊の本で手に入る―それこそ滑稽な思い上がりというものではないか?

私たちの体が鋼鉄で心が仏のように澄んでいるなら、私たちがことさら勇気を持つ必要はない。この壊れやすく脆い肉体と「ウーウー泣」くことしかできない「弱い」心を持っている私たちは、しかしだからこそ勇気を持てるのではないか?
このとき、私たちは「晩年様式集」を読むことで人間の「弱さ」を肯定的に開いていく視点を持てないか―「強さ」に呑み込まれない人間らしい「弱さ」を。
「晩年様式集」からは女性や障がい者や老人をカッコに入れて彼らに「配慮」する―狭い意味の多様性ではなく、彼らの「弱さ」を、むしろ私たちの「弱さ」に替えていく―より広く大きな人間の連帯の可能性を読み解けないだろうか。
具体的な箇所の引用ではないから、我田引水式の読みかもしれないのだが。

繰り返して言うがこの読みはかなり恣意的なものである。本来はカーヴァー「使い走り」のように、優しい「ばらけ」の感覚を読むべき作品かもしれない。たとえば長江古義人と息子アカリの以下の場面のような―

東京にいる間、私が寝室に引き揚げてもアカリはFMの深夜放送を聴いているが、それが終ると父親の義歯のコップに薬剤を入れ、泡立って音をたてる様子を見きわめてベッドに入る。その音から「ブクブク」と私らは言ってきたが、アカリの寝室に入り冬場なら毛布を整えてやって、―「ブクブク」、やられた!と、かれに先を越された憤懣ふんまんをもらすふうにいうのが、仕きたりである。アカリの寝室を覗くと、アカリが毛布の下でクスクス笑っている気配が伝わって来た……

「晩年様式集」p348〜349

「清らかな明るさ」(確か大江さんがかつて使った言葉だ)のあるエピソードだと思う。この章「五十年ぶりの「森のフシギ」の音楽」と最後の詩『形見の歌』は、いつも読んでいてほのぼのと明るい気持ちになる。

泉鏡花〈縷紅新草〉―「死(生)」の豊穣な時―

〈あらすじ〉

よね辻町糸七つじまちいとしちはお米の母親、お京の墓参りに来ている。やがて辻町糸七は何十年も前同じ夜に身投げして死んだ悲劇の女性初路はつじのことを語り始める―

〈感想―「縷紅新草」の優しさ―〉

この小説は三十路のお米と老人辻町糸七の関係が外枠(現在)に、辻町糸七が語る初路の物語が内枠(過去)に語られる。この構図は結末まで変わらない。

初路は元々「千五百石の女臈じょろう(注:高貴な身分の女性)」なのだが明治維新の廃藩置県以後没落し、「工場通い」をしていた。しかし「うつくしいのと、仕事の上手なのに、ねたそねみから」彼女のヨーロッパから注文が相次いだ「細い、かやつり草を、青く縁へとって、その片端、はんけちの雪のような地へ赤蜻蛉を二つ」刺繍したのにかけた

あれあれ見たか、
あれ見たか。
二つ蜻蛉とんぼが草の葉に、
かやつり草に宿をかり、
人目しのぶと思えども、
羽はうすものかくされぬ、
すきや明石あかしぢりめん、
肌の白さも浅ましや、
白い絹地の赤蜻蛉。
雪にもみじとあざむけど、
世間稲妻、目が光る。
あれあれ見たか、
あれ見たか。

つまり外国人の男と関係を持って(二つ蜻蛉が草の葉に、かやつり草に宿をかり)注文を勝ち取ったのだろう―(肌の白さも浅ましや)と揶揄する俗謡を苦にして、彼女は命を絶ってしまう。

その後お米と辻町糸七は初路の墓に行くのだが、墓は汚れた荒縄でぞんざいに縛られていた。このときお米は「着た羽織をすっと脱い」で初路の「墓を包んだ。」初路の墓石がここでは生身の初路と同格のものとして扱われる(この後のお米の「初路さんを、―初路さんを。」(略)「茣蓙ござにも、むしろにも包まないで、まるで裸にして。」セリフにもそれは伺える)。生を延長して―あたかも初路が今生きているもののように扱う。そこにあるのは死に対する「慰撫」ではないか。
これが私が「縷紅新草」は優しいと言う理由である。

〈生死の潮目〉

ここまでだと、「縷紅新草」はいわゆる「人情物」の作風に終わる(それでも上質な作品だが)。それが切り替わるのは小説の最後、

あの墓石を寄せかけた、柄の糸枠の柄にかけて下山した、提灯が、山門へ出て、すこしずつ高くなり、裏山の風一通り、赤蜻蛉がそっと動いて、女の影が……二人見えた。

p210

話が前後するが初路の墓を縛った職人たちはそのとき季節外れの(現在は冬)赤蜻蛉が二匹現れたことをお米と辻町糸七に話す。
赤蜻蛉は初路の象徴である。
ここで「女の影が……二人見えた。」―片方は初路としてもう一人は誰か。お米の母親お京だ、という説が多いようだ。彼らはどちらも死者だ―この小説の最後不意に死者たちはお米と辻町糸七の前に立ち現れるのである。

このとき、小説のほとんどが生者たちの時間(=昼)で占められていることを思う。彼ら(お米、辻町糸七、職人たち)は死者を哀悼しあるいは鎮魂するが、しかしその効能は判然としないままだ。彼らの独りよがりの可能性は最後まで消えない。
その生(=昼)の時間が小説の最後で、死(=夜)に取って代わられる。生者たちの後悔や思い入れさえ絶つように、

あの墓石を寄せかけた、柄の糸枠の柄にかけて下山した、提灯が、山門へ出て、すこしずつ高くなり、裏山の風一通り、赤蜻蛉がそっと動いて、女の影が……二人見えた。

死者は侵しがたい確かさでそこにある。
「眉かくしの霊」の結末

「似合いますか。」
座敷は一面の水に見えて、雪の気はいが、白い桔梗の汀みぎわに咲いたように畳に乱れ敷いた。

を連想してもいいはず。

鏡花の小説が本当に豊かだと思うのは、死が生を、あるいは生が死を取り込んで乗り越える「弁証法的な」展開にならないことである。
非業の死を遂げた死者たちの存在は、呼びかけを聞く観客としての生者、あるいは生者たちの視界に捉えられることで小説上に現れる。生者たちは死者を物語ることが彼らの生と緊密に結びついている。
泉鏡花の小説において生者が死者を、死者が生者をお互いに必要とする構造があるとこの二作品だけで説明するのは少し乱暴かもしれないが―、言わせてもらえばそれは海流の潮目のように隣り合っている。豊穣な(死の、生の)イメージを湛えて。

「今しばし死までの時間あるごとくこの世にあわれ花の咲く駅」小中英之

〈その他の作品〉

今回最大の後悔は女性の「老い」を扱った小説を探せなかったことにある。
そこで岡本かの子「老妓抄」を軽く紹介したい。老いを悲惨と捉えるのではなくむしろ肯定的に捉える作品。それは結末の「年々にわが悲しみは深くしていよよ華やぐ命なりけり」―この歌風からも読み取ってもらえるはず。
また古井由吉は老いを扱った作品数が膨大なため扱わなかった。個人的に「聖耳」「春の坂道」「朝の男」がベスト3である(ただ「朝の男」はどちらかと言えば戦争が主題だが)。
一応拙記事でも扱っている。もし興味があるなら。












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