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【長編小説】 初夏の追想 19

 ――あまりにも突然の、あの心地良い共同生活の破綻はたんから、しばらく私は立ち直れないでいた。何もかもが、本当にあまりにも呆気あっけなく終わってしまった。
 祖父は制作の手を止めて、たったいま私が持ち帰った衝撃的な話を聞いてくれた。途中無言で何度もうなづき、そうだろう、……そういうこともあるだろう、と言い、一点を注視したまま何ごとか考えているようだった。
 気まずい沈黙が、私たちのいる離れにも、向かいの犬塚家の屋敷にも満ちていた。私が戻ってから、犬塚家はしんと静まり返り、人の気配さえも感じられないほどだった。
 私はまるで放校になったばかりの生徒よろしく、ただうつろな気持ちでテレビを観たり、祖父と自分のために食事を作ったり、本を読んだりして過ごした。美術名鑑のページをいくらめくっても、何も頭に入ってこなかった。
 
 
 
 ところが、あの事件から三日目の朝、離れの扉を叩く者があった。
 柿本だった。相変わらず青ざめた顔をした彼は、いかにも心細そうに玄関ポーチに立っていた。
 祖父は夜を徹して制作に当たっていて、明け方ようやく寝についたところだったので、私は彼を二階に上げ、台所でコーヒーを湧かして持って上がった。私たちは、バルコニーの椅子に落ち着いた。
 柿本は酷く思い詰めたような顔をしていたが、ここに来る前にすでに大きな決心をしていたらしく、やがて少しずつ話し始めた。
「……今度のことでは、びっくりされたでしょう?」
「まあ、ね……。でも、君は大丈夫?」
「僕は……。今度のことが、初めてではないので。長年あの家の人たちを知っていますから。……奥さんは、以前は、篠田さんと、そういう関係でしたし」
「君はそれを、知っていたの?」
 私は驚いて聞いた。まさか守弥といつも一緒にいた柿本が、そのような事実を知りながら、そ知らぬ顔をして犬塚夫人とも篠田とも同席していたとは思わなかったのである。
「はい。あの人たちは、特に奥さんは、そういったことを隠しておくことのできない人でしたから。……というより、隠す必要を感じていないみたいだった、と言うべきでしょうか」
「なるほどね……。それは何となく、わかるような気がするよ……」
 私はあの日の彼女との口づけのことを思い出していた。彼女は、自分の心にあるものを内に秘めておくことができない性質の人間なのだ。
「僕が守弥と出会ったのは、彼が絵画教室に入ってきたときでした。あのころ僕は十五歳で、彼は八歳。とても神経質な、よく言えば感受性の鋭い子供という印象でした」
 柿本は繊細そうな長い指でコーヒーカップを握り、ひと口だけコーヒーを飲んだ。
「一緒に絵を習っているうちに、僕たちは段々仲良くなっていきました。何より彼の絵の才能は、僕を惹きつけずにはいませんでした。彼はデッサンはあまり上手くありません。描く対象のバランスが、いつもほんの少しだけゆがんでいるんです。でも……色彩かな、色使いが抜群に上手い。絵具のチョイスがちょっと僕らの思いつかないような組み合わせなんです。僕はいつからか守弥をライバルのように感じて、横にいて彼のテクニックを盗もうと腐心するようになりました。……でも、持って生まれたものなんですね……。どうあがいても、彼のようには描けない。隣にいて、彼はいかにも自由に、思うままに絵具を混ぜ、絵筆を走らせていくのに、僕のほうはどんなに真似してみたって、彼の絵のような仕上がりにはならない。才能って、思うようにはならないものですね」
 柿本の目は、憧れをもって、遠くを見るような目つきになった。
「そしてもう何年か前からは、僕は守弥を師匠のようにあがめるようになっていたんです。できるだけ彼の近くにいて、あわよくば何か画家としてのエッセンスを一滴でも吸い取ることはできないか、なんて、卑屈な気持ちも交えながらね」
 うつむき加減に笑いながら、けれど守弥の絵の才能は本物だ、と、柿本は言い切った。来年のパリへの留学も、ほぼ間違いないだろうと自分もそのつもりでいた、と。
 けれど、柿本にはひとつの懸念があった。
「奥さんのことです」
 犬塚夫人と篠田があまりにも親密過ぎると柿本が気づいたのは、二年ほど前のことだったという。
「そのとき僕はもう大学生でしたし、男女間のどうこうといったものについてはある程度理解しているつもりでした。守弥のご両親の仲が、ずいぶん前からうまくいっていないということも知っていましたし。もともと家同士が決めた結婚だったそうです。言葉は悪いかもしれませんが、新興成金のご主人の家が、格式ある奥さんの実家の名声を欲しがった……。よくある話ですね」
 柿本は、犬塚夫人と夫との関係性をよくわかっていた。夫人の行い、態度、話から推測して、むしろそんな風になってしまっているのに別れないでいるのは単に家や子供たちのためだけであることも理解していた。だから、篠田と夫人のことを知ったときも、特に驚きはしなかった。そういうのは、仕方のないことなのだろうと。
「ただ、守弥は……」
 柿本は俯いて言葉を濁した。次の言葉がなかなか出て来ないので、私は想像を巡らして、守弥について思っていたことを話してみた。私が守弥と初めて出会ったあの早朝の出来事を話すと、柿本の表情は歪んだ。
「……あのとき、守弥はとても悪い時期だったんです。ドクターからも、静かで環境のいい所に行って、ゆっくり静養することを強く勧められていました。長いこと病院にいたんですが、衰弱していく一方だったので」
「――病院に?」
 私は驚いた。毎日大量の薬が欠かせないのだという。守弥ひとりではとても間違えずに薬を飲むことはできないので、犬塚夫人が管理している、と柿本は言った。
 だが、ここに着いてからは、環境を変えたせいか、守弥は段々と良くなってきていたのだという。守弥は、極力神経にさわる刺激を避ける必要があった。ここで、柿本と並んで静かに画架イーゼルに向かう時間や、私と話をしたりする時間を持つうちに、守弥は活気を取り戻していった。それに安心したのか、犬塚夫人は、段々と外へ刺激を求めるようになった。休暇のためにここへやって来る前までは、守弥の看護のためにずっと付きっきりでいなければならなかったことの反動からか、次々に人を招いては社交に興じるようになった。 
 ――誤解しないで下さいね、と柿本は言った。犬塚夫人は、家にいるときは常に極度の緊張状態にさらされている。彼女にとっても、この山中で過ごす時間はとても大切で、日常から解放されるここでの時間はセラピーのようなものなのだ、と。
「さっきも言ったように、僕は長年この一家を知っています。毎年この別荘に来て、数週間をともに過ごしてきました。休暇のとき以外でも、ご一家は僕を本当の身内のように、守弥の兄のように扱ってくれて、僕はしょっちゅうご自宅に招待されていたんです。だから家族の一員のように、この家のことはよく知っているんです」
 近くでずっと見てきた自分には、犬塚夫人がどんな風に毎日を送っているかがよくわかる、と柿本は言った。彼女は常に何かと対立しているような、それとも何かを渇望して止まないような、焦燥感のようなものを放っていた。夫との確執はもちろん、失踪した次男についても彼女の苦悩は深いようだった。
 彼女が行動を起こすときは、大抵いつも何かに対する、、、、、、反動、、〟なんです、と、彼は言った。
 でも、守弥にとっては、それを理解することは難しいようであった。絵画を始めたきっかけは、母が篠田と画廊を開いたことであったそうだが、そのころから守弥はすでに、母と篠田の関係に敏感に反応していた。守弥は母の行いを表立ってとがめるようなことはなかったが、心の中では決して納得してはいないようだった。
 柿本が言うには、ただでさえ神経質な上に、父親から愛されることのなかった守弥は、母親にしがみつくようにして成長してきた。思春期にさしかかったころから、時折精神的に不安定になるようになったらしい。……そして、さまざまな葛藤を経るうちに、とうとう、病院の世話になるようになってしまったのだった。
 そして、今回の一件……。男は柿本も面識のない、連日のパーティにいつからか参加していた人物だった。
 柿本はあれから一度、犬塚家の様子を見に行った。彼らは守弥をかかりつけの病院に連れて行ったらしい。だが、心身の衰弱が激しく、これといった治療を施せる状態ではないと診断された。父親のいる自宅へ、こんな状態で連れて帰るわけにはいかない。それで、これまでよりも強力な薬を処方され、いまは別荘に戻って自室のベッドで半覚醒半睡眠の状態でいるのだという。
「……酷い話だね……」
 私は言った。そして、いま一度、彼と初めて顔を合わせた朝のことを思い出した。あのとき、柿本の言ったように調子の悪かった彼は、まさに心神喪失のような状態でここへやって来たのだ。彼にとっては、あのときちょっと私に微笑みかけるのでさえ、相当の労力を要したに違いない……。
 途端に、私は彼が不憫ふびんでならなくなった。こんなことが起こる前までは、私の前であんなに朗らかに笑っていたのだ。事実、柿本は、守弥は私の肖像画を描いているあいだ、いままで見たこともないくらいに幸福そうだったと言った。毎日薬を飲んではいたが、心配されていた深刻な発作にも一度もおちいることなく、状態はかなりいい方向に向かっているように見えていたのだという。
 
 ――そのとき、柿本は今日ここへ私を訪ねて来た本当の目的を告げた。
「楠さん、力を貸して下さいませんか?」
「えっ?」
「実は、楠さんにお願いがあるんです」
 柿本は話し始めた。
 
 守弥は一向に回復する気配がない。この三日間というもの、食事もまったく摂っていないそうなのだ。犬塚夫人が用意する食事を守弥はことごとく拒絶した。彼女は、段々と衰弱していく息子をこのまま黙って見ていることはできなかった。そして、彼のために何かできることはないかと訪ねて来た柿本に泣きついてきた。彼女は化粧もせず、髪も振り乱したままで、一気に十も歳を取ったように見えたという。
 柿本は、守弥のために何かできることはないかと考えあぐねた。屋敷じゅうを歩き回り、庭を巡り、その午後一杯彼は考え続けた。
 そしてついに、ひとつのアイデアを得るに至ったのだった。
 柿本は、私のことを思い出した。彼の見ていたところ、守弥は私と一緒にいたときに一番生き生きとしていたようだった。彼は、私なら、守弥の側にいることで彼に何らかの影響を及ぼすことができるのではないかと考えた。しかも私はいまも向かいの建物にいる……。藁にもすがる気持ちで、彼は今日この離れの戸を叩いたのだ。
「……だけど、僕が行ったところで、彼に対していったい何ができるだろう?」
 私は問うた。柿本はすぐにこう応えた。
「……はっきり言って、いまではもう誰にも何もすることはできません。だって守弥は、毎日意識が混濁したまま、眠り続けているだけですから……。このままではやがて病院に送り返さなければならないことになるでしょう。そうしたらまた、長い入院です……。守弥は来年の春にはパリに行っているはずだったのに。その夢も、消えてしまうでしょう……」
 柿本は、いちかばちかの可能性に賭けているようだった。私が側にいることによって、もしかして、守弥の中で何か起きやしないかと、絶望的な望みを抱いているのだ。
「お願いです。できるだけのことをしてみたいんです。そして、こんなことを頼めるのは、楠さん、あなたしかいないんです……」
 ひとりの偉大な画家が、生まれるか死ぬかの瀬戸際なのだ、と、柿本は言った。彼は真剣だった。私は、自分にいったい何ができるのか、皆目見当もつかなかったが、柿本の懸命さを見ていると、そして、ひとり横臥おうがして苦しんでいる守弥の姿を想像すると、何もしてやれないなどと言って逃げるようなことはできないと思った。それに何よりも、話を聞いていくうちに、私自身の中に、あの美しく繊細な少年を何とか救いたいと気持ちが芽生えたのだった。
「わかったよ。やってみよう」
 私は言った。
 そのとき、柿本の顔に安堵の色が浮かんだ。それは芯から嬉しそうな笑顔へと変わり、瞳には涙さえ光った。そのとき私は、柿本もまた、守弥という少年に魅了された人間のひとりであることを知った。

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