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文章を書くことについてのちょっとしたジレンマ

「私は希望もなく、絶望もなく、毎日ちょっとずつ書きます」

デンマークの作家、アイザック・ディネーセン(カレン・ブリクセン)の言葉である。

私はこの言葉を村上春樹の『職業としての小説家』という本で知った。アイザック・ディネーセンという作家の名前は以前から知っていたが、彼女の小説作品をじっくりと読んでみたことはなかった。ただ、有名俳優の出演した映画『愛と哀しみの果て』という映画を一度観たことがあるきりだった。

一昨日、昨日にかけてこの『愛と哀しみの果て』をじっくりと観返してみた。アマゾン・プライムビデオで配信されていたからだ。現在はTSUTAYAに足を運ばなくてもサブスクに登録さえしていれば座ったまま数回画面をタップするだけでパパッと無料で観たい映画が観れたりするから、ホントに便利な時代になったな……とひとり感心する。

ちょっと脱線してしまったが、何年かぶりに観る『愛と哀しみの果て』は素晴らしかった。アカデミー賞を獲っているいるだけある、と頷く。メリル・ストリープはまだ若くて美しいし(もちろん今も美しいが)、ロバート・レッドフォードもちょっと年を取っているとはいえ往年のイケメン俳優ぶりを遺憾なく発揮していた。そして、二人ともやはり名優、タフな人生を歩んでいる男女の心の機微を繊細に演じているなあとホレボレした次第である。ただ、映画は脚本家によってかなり内容が変えられているらしく、原作の『アフリカの日々』は一度読んでみたいと思った。

待て待て。更に脱線している。
映画のことを書きたかったのではない。今日私は、文章を書くことについてのちょっとしたジレンマについて書きたかったのだ。その気持ちが「私は希望もなく、絶望もなく、毎日ちょっとずつ書きます」というディネーセンの言葉を想起させ、彼女の作品への関心に繋がり、そして容易に可能であるというそれだけの理由で、一昨日、昨日にかけてあの名作映画を観賞することになった、というに過ぎないのだから。

こんな風にして、ユリシーズ的に、〝意識の流れ〟というヤツが作用する。ジェイムズ・ジョイスが書いたこの壮大な物語もいつかガッツリ読んでみたいと思っている。が、古代ギリシャの叙事詩『オデュッセイア』を下敷きにして書かれた『ユリシーズ』を読む為には、事前にあるいは並行して『オデュッセイア』をも読む必要があるだろう。ではやはり、先にこのホメロスの偉大な叙事詩の方を手に入れて、予習するべきか……。

ダメだ。次々と、連想が止まらない。意識の流れが止まらない。

言いたいことをきちんと言う為に、この流れを中途でブツ切りにしなければ。

続けよう。

近ごろ、文章を書くということについて、私はちょっとしたジレンマに悩まされている。正直に言おう。
「書く」という行為は、常に私にとって身近な生活の一部だった。以前から私は小説を書いてきたし、折に触れてエッセイ的な文章を紙のノートに書くこともあり、日記とまではいかないが、日々の記録のようなものを、スケジュール帳の余白に書きつけていた。

「予定」とか実際にあった「出来事」について書くことは、容易である。現実にあることを、そのまま記録すれば良いのだから。

ところが、創作ということになると、少し話は違ってくる。
私の場合、小説やエッセイなどを書く時には、ある程度まとまった〝アイデア〟や〝言葉〟、〝文章〟が降りてくる・・・・・必要がある。更に言うなら、その降りてきた・・・・・アイデアや言葉、文章に、自分が〝ときめく〟もしくは〝興奮する〟といったステップも欲しい。
私にとって文章を書くという行為は、かなり〝感情〟に左右される場合が多い。ある刺激を受けた時、心が反応することによって、アイデアが湧いてくるからだ。落ち込んでいる時期は憂鬱な文章を書き殴るし、ひるがえって心躍るような楽しくてたまらない出来事があった日には、興奮冷めやらぬ内にその出来事を可能な限りそのままの形で文章に起こし、〝保存〟しておきたいと願う。
そういったわけなので、感情的にフラットな状態の時――落ち込む材料も無ければこれと言って心躍る出来事も無いといった時、私の筆ははたと止まってしまうことがある。こうしてPCに向かって座ってみても、「何か書きたい」という欲求はあるにも関わらず、「はて、何を書いたらいいのだろう?」と戸惑う自分を発見するのだ。

勿論、自分で(自分なりにではあるが)「いい文章が書けた!」と喜ぶ日もあれば、「一生懸命書いたのに、何か……何かちょっと違う……言いたいことが十全に表せてないな」と感じられる日もある。そういう時は、モヤモヤした気分になってしまう。

だから、
「希望もなく絶望もなく、私は毎日ちょっとずつ書きます」
と言えるアイザック・ディネーセンの言葉にハッとする。
彼女のように淡々と毎日文章を書き続けることが出来たらいいのに、となかば羨望の思いを抱いて仰ぎ見る。

そしてまた、「そうか、そうすればいいのか」と、ひとつの書き方の指南を受けて開眼したような気にもなったりする。

感情に左右されず、希望も絶望もない毎日に、文章を書くという習慣をつける。
村上春樹も、小説を書いている期間には毎日4、5時間、400時詰原稿用紙で10枚書くと決めている、と言っていた。
だが、ディネーセンは元々親戚に貴族がいるような裕福な軍人の家庭に生まれ、大地主でもある豪華なお屋敷に住んでいた。敢えてしようとでもしない限り、労働とは無縁の生活を約束されていたわけだ。村上春樹にしても、既にプロの作家、しかも世界的に有名な作家としての生活を前提とした上でそれを言っている。
現代人の一般庶民である私にとって、その環境自体が若干羨ましいという部分は確かにある。毎日は、ともすれば仕事や雑用で埋めつくされてしまうだからだ。
私も毎日4、5時間小説を書ける環境に暮らしたいと切に願うのだが、その為には文学賞でも獲ってれっきとした小説家にならなけれはならないのだろう。文学賞を獲れるか否かは確かに時の運、そして何よりもいい小説であるかどうかにかかっているのだけれど。

とまれ、これから先、この言葉を肝に命じていこうと思う。書くことにジレンマを感じた時、
襟を正して書く姿勢についての座右の銘となってくれそうだからである。

「希望もなく絶望もなく、私は毎日ちょっとずつ書きます」

この言葉を、常に意識しながらやっていこうと思った。


*アイザック・ディネーセンの名前についての注釈:
本名はカレン・ブリクセンという女性であるが、処女作『7つのゴシック物語』をアメリカで出版する際、当時の社会的背景から女性名では本が売れない可能性があった為、男性名を使うことにしたそうだ。
その筆名について、日本語に翻訳する際混乱があったらしい。詳細は以下↓

名前の表記に関する問題[編集]
Isak Dinesenは本来はイサク・ディーネセンと読むが、映画『愛と哀しみの果て』の日本での公開の際に「アイザック・ディネーセン」という誤った表記が広まり、定着してしまった(アイザック=英語読み、ディーネセン→ディネーセン=デンマーク読みの誤表記)と書いている人もいるが、映画は1985年で、それ以前に横山貞子が『ディネーセン・コレクション』という表記で著作集を出しているので、こちらが定着したもの。戸田奈津子の映画字幕では「ダインセン」となっていた。

Wikipedia


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