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母は、料理上手だった。
食卓に並ぶのは和食を中心とした一般的な日本の家庭料理。
なぜ、わざわざ「一般的な日本の家庭料理」と書くのかというと、
私の母は結婚のため、22歳で日本にやってきた生粋のブラジル人だったからだ。

ジーパンにTシャツ、金髪に染め上げたカーリーヘアの母。
見た目からは想像できないが、「さしすせそ」を完璧に使いこなし、手早く料理をする。
夕食であれば大体30分で4~5品は作ってくれていた。
穴子も煮付けるし、蒸籠で茶わん蒸しも蒸す。
お願いすればなんだって作ってくれた。

何より大好きだったのは、出汁からとって仕上げてくれた昆布のお味噌汁。
初めて飲んだ時の感動は忘れられない。

寒い日だった。
香り高いこんぶの風味と、それをより際立たせる柔らかいお味噌。
この二つが完璧なバランスでうまみとなって舌に広がり、のどを通って、じんわりとお腹を温める。
お腹にいてもまだ美味しいなんて衝撃だった。
私の出汁好きはここから始まった。

そして、作る料理の美味しさもさることながら、
母のすごいところは、日本語が読めないため、見ただけ、聞いただけで、すべて記憶し、料理を再現してしまうところだった。

先ほどのお味噌汁も、アルバイト先の小料理屋さんで教えてもらったのをお家で再現してくれたものだった。
(母は最終的に、食材の買い出しから料理の仕込みまで任されるほどになった。)
最適な昆布の選定、お湯の温度管理に、昆布を出すタイミング。
レシピを読みながら再現する場合でさえ、難しいところはいくつもあるのに、母は目分量ですべてこなしてしまう。
匙で計っているところを見たことがないし、同時進行ですべて行うので、それぞれの料理に適切なタイミングをどう計っているのか、まったくわからない。

そんな母の姿を見て、私は幼心に、大人になれば皆、自動的に料理を作れるようになるのだと思っていた。
しかし、現実はそんなに甘いものではなく、
まっすぐの線を引くのが難しいように、料理だって職人芸。
修行しなければ、何もできない。
地獄を見たのは、母がいなくなってからだった。

いつでも習えると思っていた母の味。
突然にその機会を奪われてしまった私は狼狽えた。
何とか母の料理を再現したかったのだが、それまで手伝いすらまともにしてこなかった私には、何をどうすればいいのか分からなかった。

調理実習くらいの知識しか持ち合わせていない私が、仕方がなく頼ったのはクックパッド。
とても親切に書いてくれているのにもかかわらず、私はそのひとつひとつの意味さえまともに理解できなかった。

中火と書いてあるが、本当につまみを真ん中にするだけでいいのか?
全然、野菜に火が通っていないように見えるが…?

大匙2杯…匙なんかないけど…大匙1杯は15mlってことは、こんなもんか…?

少々ってなんだよ…そこはお任せにしないでくれよ…

格闘すること20分くらいだっただろうか。
結果的に、火が通っていないにも関わらず、焦げあがった、塩っ辛い野菜炒めが出来上がった。

一口食べ、二口食べ、何口か食べれば、これも悪くないと思えるんじゃないかと思ったが、そんなわけもなく。
母の不在と相まって、涙が止まらなかった。

その日を皮切りに、中学から大学に入るまでの数年間、受験勉強と並行して家族の料理を作ってきたが、下手の範疇を超えることはなかった。

大学に進学してからは、自分のためだけに作るということが本当に億劫で、ほとんど毎日、外食かコンビニのお弁当で済ませていた。
当然、社会人になってからもその生活は変わらなかった。

再び、毎日ご飯を作るようになったのは、今の夫と二人で暮らし始めてから。
不思議なもので、あんなに作るのをめんどくさがっていた私なのだが、
仕事から疲れて帰ってきても、不思議と毎日ご飯を作ることが、そこまで苦ではなかった。

なんでだろうと振り返って考えてみるが、やはり家庭の影響が大きいと言わざるを得ない。
毎日毎日、パートから帰ってきて、疲れていても欠かさず、きちんとご飯を作ってくれていた母。
家庭とは、食卓を囲むことだと教えてくれた父。
自分が作る家庭でも、手料理を食べながら、楽しく団欒することが私の夢だった。
人はしたいことに関しては、それほど苦労を感じないようにできているらしい。

また、夫が褒め上手、ということも、大きいと思う。
大して美味しくもない料理を、美味しいと喜んでくれて、
料理上手と褒めてくれれば、もっと美味しく作ろうと自然に思えた。
この辺から少しずつ、料理が楽しくなって、コツがつかめ始めたように思う。

そんな楽しい修行を経たのち、妊娠してからは、料理を作ることの意味が少し変わってきた。
子に母の味を受け継いでほしいとは思わないが、母の味を幸せの象徴として覚えておいてほしいと思い始めた。
子供に自分の人生のやり直しを求めているようで、少し心苦しい部分もあるのだが、いつまでも母の味で安心してほしいと願うようになった。

そして、それは同時に、プレッシャーでもあった。
受け継いだ母の味が私にはない。
美味しそうなレシピをネットで探しては、それを作るしか能がない私は、いったいどうすれば、定食屋で出てくるような万人受けする味ではない、母の味を作ることができるのだろう。
レシピ通りではなく少し手を加えてオリジナルのもので喜んでもらいたいと思うが、味の因数分解もできない私は一体何から始めたらよいのだろう。
母になる不安と、母の味の欠如が相まって、張り詰めた思いで、幾度となくお腹をさすった。
どうやって母親になったらいいか分からなかったし、切実に実母が恋しかったし、なんども頭の中ですがった。

また、たちが悪いのが、練習しようにも、つわりや体調不良でまともに料理を作ることができなかった。
娘が生まれた後も、育児による疲労などで、時間は取れない。
気持ちとは裏腹に、品数は減り、即席の調味料を使い、体や心の調子が良くないときはしょっちゅう外食に頼った。

そんな数年が終わり、娘が1歳3か月になろうとしていた7月。
ようやく、娘が赤ちゃんから幼児となり、長い時間、ひとりでも楽しく遊んで過ごしてくれるようになって、ようやくまともに料理を作れるようになった。

久しぶりに料理が楽しいと思ったのは、トマトソースを作ったとき。
やっと、二人だけの時と同じ品数が作れるようになり、チキンにかけるトマトソースも自分で作ってみた。
大体のレシピは頭に入れておいたが、あとは味を見ながら少しずつ調整した。
味見の段階で自分としてもよくできたと思い、それだけで充分に達成感があったのだが、一番嬉しかったのは、夫が食卓に並んだ料理を見て、
「今日は豪華やね、トマトソースまで作ったん?」と言って、
食べるなり、「めちゃくちゃ美味しいやん!」と言ってくれた時である。
その後も、体と心のゆとりがあるときは、普段よりも品数を多く、時間や手間がかかる料理も楽しんで作るようになった。

そして、幸せをかみしめながら、ふと気づいたことがある。
母の味は、母だけで作っていくものではない。
家族みんなで、ワイワイと美味しく食べて作っていくものなのだと。
反応が良かったものはまた作ろうと思うし、いまいちだったものは試行錯誤の余地がある。
そうやって楽しんで、自分なりの母の味を作っていけばいい。

そう思うと、肩の荷が下りて、重要なことに気がついた。
私は、きちんと母の味を受け継いでいる、といことだ。

母も最初から母の味を持ってはいなかった。
異国の地で一つ一つ手探りで作り上げていったのだ。
物心つく前の記憶にすらない母の姿と自分の姿が重なる。
母は確実に私の中に生きている。
そして、母の味を楽しんだことがある私はどれだけ幸福なのか。
言えなかったありがとうをここに残しておきたい。

娘は絶賛、偏食期で、粒の小さくて柔らかいものしか食べないし、
コンソメスープ、カレースープ、シチュー、オムレツしか食べてくれない。
私たちの母の味は、どんなものになるだろう。
大人になって、家を出た後、里帰りしたときに娘は何を食べたがるだろうか。
夫の得意なパスタだったらどうしよう。
そんな日を想像しながら、毎日、ご飯を作っていきたいと思う。

おしまい。

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