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桜 1/4

 太古からこの花は不思議な力を与えられている。

 時あるごとにこれほどまでに賛歌を読まれた花がほかにあっただろうか。自分の知る限り、桜は日本人の心に刺さるものがあるのだろう。自分は外国人ではないし、その人たちの感覚に詳しいわけでもない。だから正確なことは分からないが、おそらく外国人から見ればきっと、大きい木に咲いている日本人が好きな花。自分たちもその、量と美しさに圧倒されるというようなものだと推量する。違うかもしれないが、近似的には正しいと思う。

 自分が桜を見たり、写真を撮ったりするときに、今の日本人は、外国人化してきた気がする。というのが、大枠として思ったことだ。

 元来桜は無常の象徴とされてきていた。春。この、厳しい冬を乗り越えるとやってくる、夏よりも涼しい、一年の中でも過ごしやすいこの時期、一日千秋の思いで待ちわびたのに、一瞬で過ぎていくこの季節。その中にも、いしゅんで咲き誇り、栄華を誇る桜。それも、風雨に晒されば、敢え無く散っていく。そういう刹那を愛でるものではなかっただろうか。ここでの刹那とは、今の刹那とは少し違う。今は、刹那とは、一瞬の僅かな間のこと。そこには過去や未来という感覚はない。でも当時の刹那とは、その一瞬の中にも過去や未来があるとされていた。正に、すぐに先、繁栄の頂点を迎え、すぐに廃れるそれは、なるべくして、ある種の必然性によってそうなっただろう。

 ならば今はどうだろうか。勿論、昔がいいということも、今がいいということもない。それは、文化相対主義的な観点で見ると、ほぼ自明な産物に思われよう。それでいいのだ。

 美しさのほうに気を奪われてはいないか。栄枯盛衰、諸行無常を感じられるか、自分は思う。自分たちは最後の世代ではなかろうか、歴史的な建造物や自然はある程度、その形状が残っていれば、良しともされよう。では、文化やその民族独特の感覚はどうだろう。

 そうはいかないのではないだろうか。

 続きはまたの機会にとしよう。

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