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母というひと-071話

 母はまとまった睡眠を取れなくなったようだった。
 家の中は明かりをつけても薄暗く、母の怨みが体から滲み出て空気を変質させているような陰を感じさせる。

 私もさすがに汚い言葉ばかりを選んで吐き続ける父に向けての悪口が聞くに耐えなくなりつつあった。
 どこへ連れ出しても、何を食べさせても、四六時中悪口ばかり。そしてそれは、とっくに出尽くしたものを繰り返し繰り返し最初に戻り、同じ話を繰り返すだけなのだ。

 気が変になる。

 天気の良い、初夏めいた日。
 家の近くの大きな公園へ連れ出して食事を取っていた時、母は自分の口から繰り出される悪口にだんだんに興奮し、声の大きさを抑えることができなくなった。
 隣席の女性がちらりとこちらへ目線をやり、眉をひそめて目を背けた。

 思わず「母さん、少し声を抑えて……」と言うと、それが気に入らなかったらしく
「いいややめん。悪いのはあんヤツじゃ」ときっぱりと返して来た。
 ほどなく、隣席の女性は食事を終えて立ち上がる。
 私は心の中で詫びた。せめて早く食べて店を出たいが、母は最初少し口にした後は箸も置いたまま、また焦点の合わない目で唇ばかりせわしなく動かして悪態を履き続けていた。

「もう食べようよ」と言えば「いらん。あんたが全部食べり」と言う。
 やめてくれ。こんなで食欲など湧くはずがない。
「外に出ない?お天気良いから少し歩こうよ」と言えば「行かん。ここでいい。私ゃ(言うのを)やめんけんね」と怒りを滲ませて私を睨む。

 睨まれた時、なんだろう?胸の奥で鈍い感覚が起きた。何かひどく重いものに、どこかの肉がぐしゃっと音もなく潰されたような感じが。

 私はそれで口をつぐみ、母を直視するのをやめ、ぶっ壊れたスピーカーと化したその声を、外部の雑音として耳の外でシャットアウトし、脳に流れ込まないよう意識をコントロールした。
 そして食べ物をどんどん口に詰め込んだ。

 母は見事に、一瞬も悪口を止めなかった。
 それで店を出て「どうするね、公園に行くね」と問いかけてくる。
 私は初めて嘘をついた。
「忘れとったけど用事があったけん、今日は帰るわ。ごめんね」と。

 母は驚いた顔を見せ、「じゃああんた、もうここでいいわ。私はタクシーで帰るけん。付き合わせて悪かったなあ」と言った。
 母に「本当に一人で帰れる?」と聞くと、大丈夫と答えたので、「じゃあそうして。ごめんけど」と答え、そのまま地下鉄の駅へ走り込むように降りた。そこにいる母を振り向くのさえ嫌だった。

 私の家は、母と別れたその場所からだと歩いて帰るしかルートがない。
 バスに乗っても一駅先で降りて歩くことになるし、ましてや地下鉄など使う必要もない。歩けば20分ほどで帰れる距離だ。

 いわゆる、何かが切れた状態だった。
(もういい。もうたくさんだ。もう、いなくなろう。
 消えてしまえば私は楽になれるし母さんだって少しは眼が覚めるかもしれない)
 そんな気持ちが、胸の奥で潰れた何かから一気にあふれ出していた。

 とにかく遠くへ行こう、と思った。母の汚らしい悪口を二度と聞かないでいい場所へ。
 でも近くで私が自殺でもして、その遺体が母のもとへ届いたら、またきっと自分のせいだとか言ってさめざめと泣くだろうから、遠くへ行ってから死のう。と。

 まるで、意図的に麻痺させていた痛覚が一気に戻ってきたように、様々な感情が立ち上がって止められなかった。
 自分で何もしないくせに文句ばかりの母。それを良い事に好き放題の父。そして単に親子だからというだけで、非常識な要求に逆らえない愚かな自分に対して、次から次へと怒りも悲しみも悔しさもあらわれる。
 とにかく目の前にある地下鉄の駅に潜り込んで電車に飛び乗るのが精一杯だった。

 行くあてもない。
 頼れるような相手もいない。

 向かったのは、地下鉄に数十分も乗れば着く隣の県だった。

 後から思えば、逆方向へ向かってJRの駅に出ればもっと遠くに行けたのに……
 いつまでもトンネルの中を走り続けて欲しかったのに、地下鉄はほどなく地上に出てしまう。否応なく日の光が車内に差し込み、たった一時間ほどで見覚えのある駅に着き、仕方なく電車を降りた。

折り返しの電車に乗ろうか?とも考えたけれど、どっと疲れて体が重かった。

どこへ行こう。死ぬなら海がいいのか、山がいいのか。
ぼんやりと駅を出てみると、懐かしい風景が見えた。K城だ。

(そう言えば、ずいぶん久しぶりに来たな)と思い、つい城を見上げた。
以前来た時に立ち寄った焼き物の店が変わらずにあって、実家に並ぶ母ご自慢の食器が嫌でも思い出される。

(とりあえず北へ向かおうかな。九州から出よう。住み込みの仕事か何か探して……)そこまで考えて、愛猫の存在をやっと思い出した。毎日あの小さな頼りない存在に助けられているのに、まさか思い出せないなんて……。

 でも今は、幸いと言ってよいのか同居人が家にいる。自分が落ち着くまで世話を頼もう。落ち着いてから引き取りに戻ろう。そう考え直した。
 仕事中の同居人に電話をするのは憚られたので、家の留守番電話にお世話のお願いだけ吹き込もうと公衆電話BOXに入った。

そしてそこで

やっぱり、気が迷った。

 まず家に電話をして、帰宅が遅くなるので猫のご飯とトイレをお願いします、と吹き込んだ後、(母を心配させちゃいけない)と思い、しばらく会いに行けないけど心配しないでと、それだけ伝えようと実家の番号をダイヤルしたのだ。

 きっと留守だろうと思っていたのに、母は帰宅していた。
 そして既に泣いていた。
「帰って来ておくれ」
 開口一番、そう言われた。

 あれ?おかしいな。私は普通の顔をして別れたはずなのに、どうして考えてる事がバレたんだろう?
 咄嗟に返事ができずにいると、母は泣きながら「あんた顔が真っ青になっとった。私があんヤツの話ばっかり聞かせるけんやろう?そりゃそうやわね、あんたにとっちゃ父親なんやから聞き辛いわね」と言う。

(なんだ、分かってたのか……)

 私なんて視界に全く入っていないのかと思っていた。
 黙ってても手伝ってくれる便利な存在くらいに格落ちしてるんじゃないかと。

「もう言わん。もう悪口は言わんけん帰って来ておくれ。私にはもうあんたしかおらんのじゃけん。あんたがおらんごとなったら私は生きて行けんわね」

 まさか、声を震わせながらそんな事を言われるとは。
 帰りたくない、せめて数日でもいいから両親の存在を、母から押し寄せてくる重苦しいものを忘れて楽になりたい、そう強烈に思いながらも……

 同居人との電話の時と同じだった。
 叫び出したいくらいストレスが溜まって爆発しそうなのに、口から出る言葉は真逆だった。

「そんな心配せんでいいけん」

「ほんとね?ちゃんと帰って来てくれるね?」
 畳み掛けてくる母に帰ると答え、しばらく話して落ち着かせてから電話を切った。

(私だって泣きたいわ)
 叫んで泣いて、愚痴って暴れて。
 そうしたら少しはスッキリするんだろうか。

 怒りだの理不尽さだのが混ざったやるせない気持ちを衝動的に発散したかった。

 けど。

 毎日毎晩泣いて、怒って、怒りを父や父の相手に非常識なやり方でぶつけて娘に愚痴と罵詈雑言を聞かせ続けている母の、ストレスが解消されるどころか逆に募らせるばかりの姿が脳裏に浮かぶ。

(そんな事しても、結局何も解決しないのか)

 泣いたって怒鳴ったって、状況は何も良くならない。ばかりか、荒れる姿を晒せば晒すほどに自分の首を絞めることにもなると、私は母を通じて学んでしまった。
 それに気付いたなら、同じことは、もう、できない。

 城を見に来たレジャー目的の人たちがいるような場所では泣くにも泣けず、立ち尽くすのも変に思われ、でもすぐに帰りの電車に乗る気になれるわけもなく、目の前にある城の入り口をとりあえずくぐった。
 ここまで来たのだし、S県内で他に知っている場所もなし。仕方なくK城の中へ入ると、汚れて古ぼけた壁や天井が懐かしく、昔のままの姿をしていた。

(前に来たのはいつだっけ?)
 高校を卒業するかどうかくらいの頃かな。何かで入ったサークルで知り合った人たちの車で連れてきてもらって、それ以来。
(あの時の人たち、どうしてるだろう)
 もう皆いい年よね。大学生とか社会人ばっかりだったし。
(確か天守閣からウインドサーフィンしてるのが見えてた)
 そうそう、風が強い日で。
 夏…秋だったかな、寒いくらい風が冷たいのに、よく海に入れるよねって皆で話した。

 何も考えないためには頭の中をいっぱいにするのがいい。
 大した事もない昔の記憶を引っ張り出して、脳内で一人芝居のように会話を続けた。そうでもしないと、本音を抑えられなかったから。

 思ったより天守閣まではきつかった。
 小高い丘の上に建つ城の、さらに5階である。さすがに3階あたりで息が上がり始めるが、冷静になる時間を作りたくなくて敢えて休まず足を動かし続けた。

(自分は何をしてるんだろう?誰の、何のための行為なんだろう)

 結局最後はその問いが浮かんでしまう。
 せめて母が幸せになるためと思っていたけれど、どうやらどんどん彼女は不幸へ向かっている。

(間違ってたんだろうか)
 一番考えたくない問いが浮かんだ。
 ずっと、この問いからは目をそらしていたのに。

(もし間違った選択をしたのなら、私は親不孝の罪で地獄行きだな)

 楽しそうに連れと笑い合う人たちとすれ違いながら、女一人で思い詰めた顔をして城を上るのは自分でも妙な感じだった。
 それでも、天守閣から見下ろす海の群青色は、ちゃんと美しかった。

 風はやはり強く、顔面を打って来る。

 昔見た風景と、何も変わってない。
 町の中ではあれこれと店や人が入れ替わり、新しい家屋が建てられているにも関わらず、俯瞰で見る景色に大きな違いは見られなかった。

 よく晴れた空。パノラマに広がる天守閣からの眺めは内海で、ほんの少し閉塞感を感じさせる。
 それは今の気持ちと呼応した。

 母からの頼まれごとを断りづらい状況だとはいえ、服従させられているわけではない。
 断って自分の暮らしを、自分の将来に向けて進めても良いはずなのに、それをせず、できないと自分を縛って内海から出られずにいるこの状況と。

 ほんの少しの間に、汗ばんだ全身も、上がった息も海風にすっかりと冷まされていた。
 海では数人のウインドサーファーが沖へ出て、カラフルなセイルを張っている。
(そうか、この強い風がウインドサーフィンには向いてるのか)
 昔は気付きもしなかった事が、今は分かる。その程度には、この10年で雑学の知識も増えたわけだ。

 休みなく正面から顔を叩きつけてくる潮風に呼吸を押さえ込まれて、少し苦しい。
 おかげで、目が覚めた。

 思い詰めた時には、ヘトヘトになるまで歩いてみるのが良いのかもしれない。自分達を包んでいる景色の本当の大きさを見に、少し遠くへ行くとなお良いのかもしれない。

 この日のK城からの景色は今も忘れられない。
 かなり遅くなったが何とか帰宅し、迎えに出てきてくれた愛猫を抱いて謝った。とにかく謝った。

 同居人は留守電を聞いていたはずだが何も聞いて来ず、説明しかけたが特に興味もなさそうだったのでやめて、母へ電話した。「帰って来たよ」と。


普通と自称する母の、普通とは言い難い人生を綴っています。
000047話は、母の人生の前提部。
051話からが、本編と言える内容です。

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