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電車と鏡の線形認知について

その日、彼女は緑色の電車がこれから彼女を運ぼうとしている電車を待つためのホームに立っていました。

彼女の名前は、いわゆる昭和のような香りのする素敵な名前だったと思います。最近はあまりそのような雰囲気の名前を見聞きする機会はなかったものですから、彼女に周囲の人たちは彼女を常に名前で呼びました。あだ名はなく、彼女はずっと名前で呼ばれ親しまれて生活をしていました。

季節は春先にも関わらず、まだ冬の匂いを残していましたし、暖冬とは呼ばれていましたがそれでも都会はビル風というものがありまして、それが肌を突き刺すように吹き続けるので春の色合いを装うにはまだ少し早かったようでした。彼女はまだ冬の間着ていた軽めのダウンを着ていました。珍しいものではなく、100人そこにいたらぽつらぽつらと見かけるようなものでした。

その冷たいビル風は駅のホームにも速さを変えずに流れ込み、少々ぶっきらぼうに伸びた前髪が揺れました。そのせいで視界が遮られますからそのぶっきらぼうな前髪を耳にかけ過ごすことにしました。
そうして彼女は数分、数秒。電車が来るのを待っていたわけです。

それほど時間が経過しないうちに向こうの方から電車がやって参りました。完全に停車し扉が開いたのちに彼女はこれから自身を運ぶ予定の鉄の塊へと身体の移行作業を難なく終え、移動を開始させました。正確には彼女は動いていないのですが、もっと正確に言えば彼女は移動していました。その頃にはホームにも突き刺すビル風の音も空気の流動も感じなくなっていました。しかしそれとは反面、その電車の中は満員電車でしたから人の熱気で先程の体感していた温度とは真逆の感覚を得ました。彼女は彼女の携帯から有線で接続されたイヤホンから聞こえる彼女の好きな曲でその苦痛の時間を紛らわせていました。それは今流行りの曲で誰もが知っているようなラブソングでした。ドラマの主題歌に起用されていて、彼女は月曜日の夜から始まるそのドラマからその曲を気に入りました。

少し話を逸らしますが、そのドラマは売れない小説家と才能あふれる若手起業家の女性が恋に落ちる物語でした。売れない小説家は過去に一度だけ大ヒットした小説の印税だけでなんとか暮らしていましたが、世間からは「一発屋」だと散々に言われ続ける始末でした。その幼なじみであったヒロインは、それでもその小説家を愛しました。彼女は最先端の業界で若手らしからぬ才能を振りまき、今話題に起業家ということでメディアで見ない日はない程有名になっていきました。何度書いても売れない小説家は、何をしても売れていく彼女に対して癇癪を起こしたり、二人は愛を育むことも不可能な状態にまで壊滅します。二人はそのあと別れてしまいましたが、それから数ヶ月後に彼女の会社は傾き始めました。内部の組織崩壊が原因で裏切りやら何やらが勃発し始めました。彼女はもてはやされた現状から一転し、評判は落ち続けました。彼女はもう彼女を救ってくれる誰かを失ってしまいましたから、彼女は彼女を辞めようとしていました。そんな時売れない小説家から手紙が届きました。その手紙の内容はドラマの演出の関係で、知ることはできなかったのですが、彼女はその言葉で救われ彼女の会社はV字復活を遂げるのです。そのあと見事復縁を果たし、二人は仲良く生活をしました。小説家は小説家としては売れませんでしたが、彼女の人生を支える言葉を書き連ねることはできました。彼女の物語をよりよくする言葉は紡ぐことはできました。それから小説家は彼女の会社のコーピーライターとして働き、言葉は彼女のみならず彼女が産んだ彼女の会社までも豊かにしました。それは一種の小説であると一言残して、そのドラマは幕を閉じました。

よくあるサクセスラブストーリーにように思えましたが、彼女はそれを大変気に入りました。それからは彼女はそのドラマに主題歌を聞き、ドラマのヒロインが経営していた会社と同じ業界の職業につきました。

彼女が電車に乗ったのはその理由です。今から職場へと彼女は移動していました。しかし彼女の働く生活は想像とは違ったものでした。ドラマの中の補正されたキラキラした世界とは違ってもう少し、いやよっぽどひどいものでした。もう2年ほど同じ職業についていますが、彼女は家に帰れず会社に泊まっていた時の方が多かったのです。そのような憂鬱と満員電車の苦痛をどちらも抱えながら彼女を癒すのはやはりそれでもこの仕事を選んだ理由でもあるドラマの主題歌でした。

電車というものは不思議な感覚がします。グルグル回って都会の全てを網羅的に移動できる鉄の塊であるのに、どうも真っ直ぐ進んでいるようにしか感じません。時折揺れることもありますしその反動で左右に揺れることもありますが、どうも真っ直ぐ進み続けてまっすぐではつけない場所についてしまうのです。彼女はそう思う時もあれば思わないこともあるでしょう。少なからず今は憂鬱と苦痛を紛らわすことに気の全てを使用していました。とは言いつつ彼女の気は他にも向くことになりました。

「この先電車が揺れますのでご注意ください」
というナレーションとともに電車は予定どおり揺れました。満員電車で身体は揺れるはずですが、満員電車でしたので身体は固定されていたため大幅に揺れることはありませんでした。しかし問題はそれ以外にありました。それはとても静かに日常の記録として溶け込むような、ビル風より突き刺さらず体をゆっくりと滑らかに覆うような悪寒でした。

彼女は多少揺れた体を元に戻そうと視線を揺らす時、
今までで初めて私と目が合いました。

私も体が揺れてしまい、耳にかけたはずのぶっきらぼうに伸びた前髪が再度視界を邪魔したので定かと言えばどうも言い難いですが、ほぼ確実に彼女と目が合いました。
体を包んだ悪寒はもちろん私の方でした。記述していた順番が悪かったように思います。私は彼女をよくしていますが、彼女は初めて私を知覚しました。ふとたまにあることでしょう。知らない誰かとほんの一瞬だけでも目が合うことくらいは。それは1日に何度起こるかは知る由もありませんが、その誰かが自身の生活のほぼ全てを知っている可能性もないとは言えませんし、一番怖いのは私の方です。これから彼女は私を記憶に格納しました。私のしていることが私自身では何かわかりませんが、鏡を使用すると自身の姿形が解るように、彼女の認知を経由して私の行いが明確化されました。

彼女はすでに目を逸らし、また好きな曲をリピートしていた。いつも大音量で聴くため音漏れですら、リズムと少々の歌詞は読み取れたのです。

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