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自分が抱くバイアスに気付くのは辛いし苦しいけどなかったことにはしたくない

「マイノリティであるが故にどうしようもならなかった経験」を持っていないと得られない感覚はおそらくあるんだろうと思う。
ここのポイントは、社会の物差しがどうであろうと、「自分が自分をマイノリティと自覚し、それが理由でどうしようもない、頑張ってもダメだった」という経験を持っていると自分が思うかどうか。世の中や他者がどう思うかはあんまり関係ない。

「マイノリティだけどどうにかなった人」「自分がマイノリティと思ったことのない人」がそれを自覚するプロセスや気づいて行動が変容するプロセスを知りたい。私は最近ようやく自覚しつつある。
そのプロセスは結構しんどい。「あ、自分が恵まれてただけだったんだ」とか「あれ?自分はこれまで多くの人を傷つけている」とか。だからなるべく見たくないし、気が付きたくないし、その必要性も感じづらい。なんなら怖い。

一方、自分のそういう生存者バイアスに気づかずに「社会課題の解決」の仕事や「対人支援」の仕事に就くことは結構危険であると最近感じる。
他者に対して「頑張ればできる」を強要したり、よけいに格差を増やす(=社会課題の解決策として新たな社会課題作ってしまう)施策を打ってそれに気がつかない可能性が大いにある。
意思決定をする際に当事者が関わった方がよい理由はここにある。それも「自分は頑張ったからできる」当事者ではなく、「頑張ってもできなかった当事者」が関われた方が良い。

「できない気持ちがわからない」「自分は頑張れたから自己責任のなにが悪いのか分からない」人がたくさんいたとしても排除される人を生まない社会づくりをしていくのを頑張るけど、一方でなんだかもったいないとも思う。「できる」人ほど、気づいたら一緒に変えていけそうだなあ、と。バイアスに気付くことはしんどいかもしれないけれど、一緒にそのしんどさを共有したい。「なかったこと」にはしたくないから敢えて共有していきたい。もちろんこれは「個人」の責任ではないので、気付いたら社会のどの構造が、どの文化が自分にそのバイアスを与えたのか、研究したい。まさにソーシャルマジョリティ研究。

ちょうどこのを読み終わってヒリヒリした。ままならなさややるせなさは絶望的な気分を持ってくるしだいぶしんどいけれど、でもそれを見ないフリしたら変わらない。だから、周りの人と話したり共有したりしながら、無視はせずに、上手に付き合っていきたい。



※写真はばあちゃん(97歳)の塗り絵シリーズ


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