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自分はとても小さくて、世の中には序列と性差があることを知る(1991年・5歳)

自分が「女」だということを、初めて意識したのはいつのことだっただろうか。

読み終えた雑誌を片手に、ふと考えてみた。そして「やっぱりあの時が最初かなぁ」と思い出したのは、保育園児の時のことである。

4歳くらいの頃、年中組のなかでスカート捲りが流行っていた。
めくられる対象になると分かっていても、自分はスカートが履きたかった。なのでスカートをめくられても騒ぐことなく無視してやりすごすことを選んだ――その時のことを。

めくって叫ばれたり怒られたりしながら追いかけられて走り回りながら喜ぶ男子たち。自分たち〝やられる側〟との違いを覚え、それが男と女という生き物……雌雄の違いであることをハッキリと認識した。

この世界には「男」と「女」がいるのだ。
そして、性別によって降りかかる出来事が左右されるのだ……そういう社会の縮図のようなものを、漠然とだが保育園で学んだと思う。

クラスのなかだけでも、男女を問わず〝強い〟〝弱い〟〝すごい〟〝すごくない〟などの序列があって、総合的に強いものが上に立ち、弱いものを支配する。それが当たり前のようにまかり通っていた。

親や教職員に叱責されたことで一時的に収まって見えても、彼らのなかにある上下の認識が消えることはない。
たわいのない遊びや、子供同士の揉め事のなかに、そういう根深い仕組みのような感覚的なものを見出していたような気がする。

保育園の先生というのは、優しく自分を守ってくれたり新しいことを教えてくれたり厳しく叱ってくれたりする心強い存在だった。
だが、彼女らの中にも序列はあって、時には残酷に自分たち子供のことを見放したように……見て見ぬふりをする存在でもあると――5歳の頃には感じていた。

危険があれば守ってくれたり助けてくれたりする人が多いが、いつも守ってくれるわけではない。
なにより、大きくて強い〝おとな〟の誰もが〝こどもの味方〟なわけじゃない。ましてや〝ヒーロー〟はめったに現れるものじゃない……存在するかも疑わしい。 

なんとも言い難い不安や恐れとともに、そういう現実……理不尽な世の中を、年長になる頃には痛感していた。

幼児らしい夢を描きながら、現実は甘くないということを知るマセた子だったと思う。


なぜなら、昼寝の時間になると布団の中に潜り込んできて、パジャマの中にある自分の素肌をまさぐる「男」の手から、誰も自分を助け出してくれなかったからである。
知り合いの父兄に遊びで人前で下着を脱がされて、嫌がっているのに誰も止めに入ってくれなかったからである。

助けなんて簡単には来ない。悪いヤツは本当にいる。そこには「男と女の違い」というやつも絡んでいて、自分と他人の間には、常に大なり小なりの〝理解できない壁〟が存在するのだ。


激しい羞恥や複雑な嫌悪感を心に刻み込むという体験をしたあとは、決まって自分が「女である」ということを、強烈に意識していた。

細かく言うと、当時はまだ「女の子」という分類だったと思う。

とにかく幼い女は不利であり、早く大きくなりたいと思うようになっていた。

そして、卒園して小学校に入学すれば、それが叶うと信じていた。
大きい「お姉さん」になる自分なら、不安な心の中にある何かを損なうようなことはなく、自由に生きられるのだと思っていた。


後にアッサリとその事実は覆されて。
ますますの不満と嫌悪とが綯い交ぜになった「怒り」のような感情を、嘆きながらも抱えるようになってしまったのだが。

運が良いのか悪いのか……よく分からないけれど、それなりに学びは多かったと思う。
今だから言えることではあるが。


そういう経緯があって、自分は今も「男女の違い」についてよく考えるし、面白いなぁと思うのだ。
不思議だと感じることや、共存することに楽しみを見出すことも多い。

それと同じくらいの割合で、抗えない縛りや突破できない括りに不満を覚えることもある。

なぜ、自分たちは「男らしく」「女らしく」あらねばならないのだろう……
なぜ、自分たちは「男らしく」「女らしく」ありたいと願うのだろう……

相反する欲求とともに、なにかを訴えたくなるような叫びとともに、今日も自分たちは「私」という括りの中に「男」や「女」を宿して生きていく……

なぜ、そうまでして生きるのか……


考えても仕方のないことを、考えることを許してくれる……
正解のない答えの捉え方、落としどころは一体どこにあるのか……

一緒に考えながら、ヒントを与えてくれる。

昨日、久しぶりに読み返した本は、そういう無駄かもしれない思考を許してくれる本だった。

なので、自分もこうして、安心して思い返したり、考え込んだりできた。


せっかくの機会なのだから、忘れないうちに記しておこう。

本日は、5歳の思い出とともに……

泣くでもなく叫ぶでもなく、ただ穏やかに考えを巡らせながら眠りに付けることは、今の自分がとても平穏で、死ぬほど辛い状況ではないから出来ることだ。

いつかは死ぬことが分かっている人生のなかで、こんな時間を持てたことを、幸せだと思う。

最近は特にそう思う。有り難い毎日なのである。

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