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人間としての食事

食事は科学ではなく、文化である。
そう考えるようになったのは最近のことだ。

社会人になり筋トレに目覚めた健康オタクの私は、よく筋トレ系YouTubeの動画を見るようになった。
彼らのストイックさは本当にすごい。
筋肉マッチョのことを「筋肉バカ」「脳筋」などと言うのを耳にするけれど、強靭な肉体に仕上げるのには単に気合だけでは不可能である。
食事からトレーニングに至るまで彼らの生活は何もかも計算し尽くされている。あの美しい肉体は正確な知識と日頃の努力によるものなのだ。

私は料理が好きな事もあって、彼らの食事の動画をよく見る。彼らの動画を見ると、食べたものが体を作っているということに改めて気付かされる。彼らの食事は、回数や間隔、それぞれの栄養素の摂取量などが、減量期・増量期などといった体のコンディションに合わせて細かく調整されている。「何を食べたいか」というよりも、「この栄養素を何グラム摂らなければいけないから、これを食べる/これは食べない」といった具合だ。
彼らが口にしているのは料理ではなく食材と言い方が適切である。彼らにとって、ご飯を食べることは、食事というより栄養摂取なのである。

彼らのたゆまぬ努力は素晴らしい。ただ、私は食事が単なる栄養摂取になってしまうのは、少し悲しいと思う。もちろん栄養は大事だが、私にとって食事の本質とは、料理を楽しみながら食べることである。ときに季節を感じ、ときにその地域ならではの味を感じるのが食事なのではないか。そのような料理は、日々の生活にささやかな喜びをもたらすものだ。

食事は文化であり、科学ではない。栄養を考慮しつつ、いかに栄養摂取にとどまらない文化としての料理をするのか。その意味で食事とは、人間ならではの営みといえる。
料理とはいかなる行為であり、どのような意味をもつのか、そこには哲学的な問いが広がっているだろう。

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