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カフカ

カフカの『審判』
ちびちびと読み始め。

『変身』は駆け抜ける様に読んだ。
読後、ただただ「なんという…。」と呟いて、
衝撃が残った。

だけど、『変身』にしてもこの『審判』を読んでいても、冒頭からずっと奇妙さや違和感、まさしく不条理の渦に包まれているのに、妙に読んでいて居心地が良い。

「水を得た魚」と言っては用法が違うけれど、
自分が昔から息をし続けていた、不条理という海の中に帰してもらった感覚。

病から来る理不尽な波が、次々と押し寄せる海の中を泳ぎ続けてきた私は、漸く今、青々とした澄んだ海を渡ろうとしている。
目指していた新しい海の入り口にさしかかったところだ。

ところが、その海がとてつもなく居心地が悪い。
泳ぎ慣れない水の中、予測不能な波に溺れそうになる。
それに、澄んだ海はどこか冷たい。

澱んで生温い不条理の海を泳ぐ感覚が、まだどうにも身体に染み付いているようだ。

カフカの文学は、(詳しいことは分からないけれど)何を示唆しているかについて様々考察されている。
けれど私には、カフカはただ思いのままに書いていた、ように感じる。

鋭く世界や社会を見抜き、何かを訴えようとしていたというより、不条理の海を泳ぎ、身体に浸透してきた水の重さを、そのまま排出していたのではないか。

カフカと同じ海に泳いでいたなんて、そんな烏滸がましいことは言えないけれど、カフカの小説の海は、私の日常だった。

それを良しとする気は毛頭ないし、それが示唆するものを考えてこそ、これからを良くしていくきっかけになると思う。

ただ私は、カフカの本を読みながら、泳ぎ慣れた感覚の中、ただただ不条理に流されていく。
それが妙に心地良いのだ。