ぐらしあすの「ぐらしあすが精神保健福祉士として、かつ当事者として、精神障害者を支援していると勘違いしている支援者たちに思うこと」①

完全にぐらしあすの主観です。
もちろん支援者の中には、障害者の立場に立って丁寧に支援する方々もいます。

精神科医や精神保健福祉士、臨床心理士、公認心理士は何をモチベーションとして生業としているのだろうか?

以前にある精神科医から聞いた話だが、血を見るのが嫌だから精神科医になったというドクターがいた。
それはそれで、精神科医療を丁寧にし、勉強し、適切な処方とフォロー、そして主治医としてしっかりと患者の疾患や生活のしづらさを受け止める力量のあるドクターであれば、またなろうとする意欲と親身な臨床を行っていれば素晴らしいこと。

しかし、他科に自信がなくなんとなく勤務医になったり、設備投資を少額に抑えることができるということもあり、開業精神科医にでもなろうかというドクターも残念ながらいるのも確か。

精神科福祉に関して言えば、そもそも支援という言葉か好きではない。
なぜならばその言葉には、私があなたを支えてあげますという、どこか対等目線との乖離を感じる。
それではどういえばいいか…サポーター?伴走者?
ぐらしあすは「人間同士の仲間」と考える。

仲間として、当事者の社会生活上の困難を、時には「その分野は私詳しいので任せて!!!」
また、「生活のしづらさをフランクに教えて!!!」
そして、「その困難さについて一緒に考えていきましょうよ!!!」

そこに仲間の一人として、リーダーシップは必要か?
必要であると考える。それは、仲間の声を適切かつタイムリーに代弁するする時である。

一旦仲間意識が出来上がると、目に見えないパワーとなり、そのパワーの輪が大きくなっていく。

例えば、精神科デイケアや施設などでの支援者「ここでは支援者という」は
アサーションやオープンクエスチョンに対して伝えることが苦手であったり、もしくはあっても自信がない当事者とともに、どうすればより良い居場所になるか一緒に話し合う(反社会的思想や行動、自傷他害の恐れありは別問題)ことが最重要。

ぐらしあすならば、支援者からの上から目線で、解決策の方法論を力説されたり、決めつけられるような支援者のいる場所には行きたくない。
つまり、精神科福祉に関しても、需要と供給が存在する。
障害福祉サービス面では当然のことなので、それとは別に、仲間同士としての需要と供給である(これはある意味相互扶助的に近い)。

ともすれば、支援者側都合の供給過多状況になりうる。

医療機関の支援者は立場上そうは言ってられないのは事実。
病院の収益を上げなければならないので、その方針に従わざるを得ない。
それは支援者としての主義、信念によるので、そこが自分の職場だと信じている支援者はぐらしあすにとってはどうでもよい。

もっと書きたいことがあるが、いったんここまでとする。

仲間が集まる居場所は、単なる居場所というよりも、

一つの大切なコミュニティーであると考える

ディプレッションまっさかり。ぐらしあすの「こころの声」を中心に、自分が体験したことや、時折感じる何のエビデンスもない、主観の記事も徒然に書いていきたいとおもいます。よろしくおねがいします。