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じぶんの嫌いなところを好きになる必要は無いけれどそんなこと忘れるくらいには生きつづけていたい

20190826

「じぶんの嫌いなところを好きになれるよう、日々正しく生きていきましょう」と、誰かが言ったような気がする。

じぶんの嫌いなところはあるだろうか。わたしにはあるし、あなたにもある。愚問。生きていれば、誰だって。

何不自由なく見えるあの子にも、きらきらと輝いて生きているように見える大人にも、じぶんを嫌う部分はきっとあって、しかし、そうは見させないなにかがある。それはとても強みだ。

嫌いなところ。わたしには、いくつかのはっきりとしたものと、とくべつに意識していないけれどふとしたときに嫌悪するものの、ふたつがある。

はっきりしているのは、よわい心と、生まれつきの醜さと、過去に囚われがちな思考。このあとに思いついたものはたいてい、これらのどれかに当てはまってしまった。もっと複雑で、ふくらみをもっていると思っていたが、ことばにのせてしまえばわりかし単純であることに安堵する。

人間、どうにもならないことが、どうしてもある。もしくは、現状ではどうしても、すぐにはどうにかできないことだ。そしてそういうことが、「じぶんの嫌いなところ」として浮かび上がってくるような感覚はないだろうか。これは、考えてみれば当たり前なのだけど、どうにかできることならば、とっくのとうに解決していて、いまさら悩んだり、憎んだり、嘆くこともない。

でも、どうにもならないことと生きていかなくてはいけない。それもまた、どうにもならない事実である。なんだか堂々巡りだ。

嫌いなところを、いつか好きになれるとはおもわない。好きになれ、ともおもわない。努力でどうにかできないことがあるってことを、知っているか。それを、かんたんに「努力不足」だなんて言われたら、わたしたちはもう立っていられない。そういう人間とおなじように生きようとしても、無理はいつかどこかで祟るし、やはり禁物なのだった。

いまできることは、じぶんの嫌いところまで好きになるとか、愛せ、とか、そういうことじゃない。正さなくていい。

必要なのは、気が抜けたとき、じぶんの嫌いなところに引きずりこまれないよう、進みつづけること。

進むということばは、また、なんだか勢いよくとばしてかなければいけないような、そういうしつこさがあるけれど、そうではなくて、、わたしが言いたいのは、「止まらない」という意味だ。いわば、かたつむりのような歩みでいい。引っぱられても、引かれなければいい。そう、そのくらいの気軽さで、進みつづければいいのでは、とおもっている。

まとまらない。一日中、文章と向き合った日に文章を書くのはとてもしんどい。体をうごかす仕事をしなくなってから、あたまがつかれることを知った。そして体のつかれより、あたまのつかれのほうがわたしにとっては深刻だ。甘いものでも食べて、こくんと寝てしまいたい。

嫌いなところがやっぱり多くて、だめになってしまいそうだった。文字通り、わたしは引っぱられてしまった。なにもせずに、止まっていたから。

ごちゃごちゃして、まだまだ迷いがあることに気づく。そういうときに思いつく人がいて、わたしはひさしぶりに話したいと思った。わたしが堕ちてしまったときに、とても心配してくれ、本をたくさん読むといいよ、と教えてくれた人。あのことばは正しいなと今、感じるから、会いたい。彼はきっとこのまえより、着実に成長しているはずだ。連絡をいれ、9月にお茶でも、という約束をした。

夜が涼しい。駅前のベンチに腰かけて、もう、1時間も涼んでしまった。かぜがきもちい。夏のことはもうわすれた。来月、今よりもっと過ごしやすくなっていてほしい。ながい袖の服を、はやくまといたい。

おひさしぶりでした

缶ビール、買って帰る。

aoiasa

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最後までありがとうございました。 〈ねむれない夜を越え、何度もむかえた青い朝〉 そんな忘れぬ朝のため、文章を書き続けています。わたしのために並べたことばが、誰かの、ちょっとした救いや、安らぎになればうれしい。 なんでもない日々の生活を、どうか愛せますように。 aoiasa