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スープとアートと価値のはなし


最近は、すっかり外に出るのが億劫な寒さになってきました。

バタバタしているうちに、暦を見ればすでに師走。先週なんて外へ出たらあたり一面に雪が舞っていて、開けた扉を思わずパタンと閉めてから心の中で「今年も、冬が、、冬がやって来たのだな」とつぶやいてから、上着とマフラーをさらに着込んで出かけ直しました。

私が住んでいるベルリンでは、12月の日の出は朝8時過ぎ。そして夕方16時前には日が沈むものですから、24時間ある一日のなかでも、お日様が出ている時間は計8時間もありません。

なので冬の間は特に、日が出ているうちは短い時間であっても散歩に出かけます。家の近くに緑の多い散歩道があって、たとえ10分でも、歩いていると頭も気持ちもすっきりします。時間があるときは考え事をしながら同じところをぐるぐると回っています。

ここの冬は、暗さとその長さに厳しさを感じます。


こんな寒い日は温かいスープでも飲みたい。

トロリとしたやさしい味のクリームスープもいいけれど、たくさんの野菜を煮込んでつくったさっぱり味のトマトスープもいい。きっとすっとお腹で溶けて熱に変わるだろう。

コトコトじっくり温めて飲みたい。

絵にかけるのではなくて。


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最近は以前に比べて、「アート」の文字をニュースで見かけることが増えてきたように思います。なんでも、トマトスープをかけられたり、マッシュポテトを投げつけられたりしているそうです。


大変ですね、アートも。


アートって、そんなご飯のおかずみたいなものだったかしら、と、ふと振りかえって思い返してみると、たしかに昔から絵画にはいろんなものが投げつけられてきたような気がしてきます。

絵画に投げつける、と聞いてまず思い出すのは美術史上でおそらく最も有名な美術論争裁判。(実際になにかが絵に投げつけられたわけではないのですが)

「公衆の面前に、絵の具壺を投げつけた」と紙面に書かれたことに腹をたてた画家が、その批評家を名誉棄損で訴えて裁判となった事件です。
ことの顛末をさらっとみてみましょう。

今からもう150年ちかく前になります。1877年のロンドンのギャラリーにて、画家のホイッスラーによる「ノクターン」と題した、ほとんど画面に墨を流しただけのような絵を見て、当時の美術界で強い影響力を持っていた美術評論家のラスキンは激怒しました。そして「公衆の面前に、絵の具壺を投げつけておいて、200ギニーを要求されることになろうとは思いもしなかった」と紙面にて激しく非難します。


Nocturne in Black and Gold, the Falling Rocket, 1875


ホイッスラーはアメリカに生まれ、パリにて、マネやドガ、マラルメなどと交流し、マネが「草上の昼食」を発表した落選者展にも同じく出品しており、当時の多くの新進画家たち同様、日本絵画の影響を強く受けた若き気鋭の画家でした。その後拠点をロンドンに移してからはオスカーワイルドを高弟に持ち、社交家で饒舌なうえに絵の腕もある切れ者として、当時の画壇で脚光を浴びます。

対してラスキンはオックスフォード大学を卒業したのち、同校で教鞭をとり、「不思議の国のアリス」で有名なアリス・リデルの家庭教師をするなどしながら、美術に関する多くの著作を発表しています。ターナーとラファエル前派を軸にして、今に通じるイギリスの芸術文化の基盤を作ったヴィクトリア時代の美術界における最大の功労者であり重鎮です。

先述の裁判で、作者であるホイッスラーは、ラスキンの批評は名誉棄損にあたるとして訴訟をおこしますが、当時の美術界、また新聞の多くはラスキンの側に立ち、やはりホイッスラーの作品に対して、泥、煤、しみ、筆で拭っただけ、など、絵画としての未完成さを批判しています。例えば当時の「タイムズ」紙には、ホイッスラーの作品「ノクターン」はとても真摯な芸術と見なすことはできない、と書かれています。

健康上の理由で欠席していたラスキンのいない裁判は、饒舌なホイッスラーの独壇場となり結果は勝訴。ホイッスラーの名誉は守られましたが、大した賠償金を得たわけでもなく、訴訟費用の支払い義務からホイッスラーは破産に追い込まれてしまいました。

その後、ホイッスラーは一冊の自著を出版します。それが「敵をつくるための優雅な方法」という一冊です。

この本の中でホイッスラーは、いかにして自分が批評家や学者や生真面目な人たちを憤慨させ、またそのうえでどのように皮肉や機知を織りまぜて、「優雅に」敵をつくったか、が綴られています。

特に有名な法廷でのワンシーンは、「問題の絵を描くのに、どれだけの時間がかかりましたか?」という弁護人の質問に対して、「1日、いやぁ、乾くのを待って、正確には2日、ですかね」とホイッスラーがすまして答えた後に、「なんとたった2日!あなたはたった2日の労働に対して、200ギニーものお金を要求するのですか?」と弁護人が切り込んだところを、かの有名な決めぜりふでホイッスラーは返します。

「いいえ、私は私の全生涯を通した経験と知識に対して、それを要求するのです」と。


この裁判は、作品の価格が単に労働単価によってはかられるものではなく、生涯を通した研究の成果である、というアートの価値の根拠を問いなおしたものとして美術史上でよく知られており、またこのやりとりは、さまざまなバリエーションを生んで、今日まで語り継がれています。

ちなみにホイッスラーの自著によれば、くだんのセリフを決めたあと、法廷は拍手喝采につつまれたそうです。


ホイッスラーの「敵をつくるための優雅な方法」は静かな反響を呼び、出版の二年後にはロンドンにて大規模回顧展を成功させています。またその後、墨を流しただけで200ギニーもの大金を要求するだなんて、と言われた絵画「ノクターン」は、無事に800ギニーで売却されました。


場所はすこし変わりますが、ちょうどそのころ、裁判の前年にあたる1876年にはパリの画廊にて、モネなど印象派の画家たちによる、第二回目の印象派展が開催されていました。

ロンドンで新進気鋭の若手画家ホイッスラーが酷評を受けていたころ、同じく新進気鋭の印象派たちの展覧会は、パリでどのような評価を得ていたのでしょう。パリのフィガロ誌にはこう書かれています。

ペルティエ通りは不運な通りである。オペラ座が火事になったかと思えば、またすぐに新たな災難がやってきた。デュラン=リュエル画廊で始まったばかりの展覧会に飾られていたのは、主催者によればどうやら絵画だという話だが、中へ入ると、おぞましいものが目に飛び込んできた。女性を含む5、6人の頭のおかしい連中が集まって、自分たちの作品を展示している。人びとは絵を見て大笑いしていたが、私の胸は痛んだ。彼ら、画家気取りの連中は、自分たちのことを革命家と称し、印象派だと公言している。連中ときたら、カンヴァスと絵の具と筆を準備して、あちこち出鱈目に絵の具を塗りたくっては、はい、出来上がり、と署名する。病棟の精神異常者が道端の石ころを拾って、ダイヤモンドを見つけたと思いこむのに似た錯覚である。

エルンスト・ゴンブリッチ 「美術の物語」


この記事を書いた評論家は、まさかその石ころのような絵画が、いずれ特大ダイヤモンドを何十個も並べなければ釣り合わないほどに価値のある石ころになるとは、夢にも思わなかったことでしょう。

またたとえそれを夢に見るような直観と美的感性に優れ、慧眼を持った稀有な評論家がいたとして、今度はそこからおよそ150年後に同じ画家のダイヤ数十個分の価値がある絵画にマッシュポテトが投げつけられることになるとは、さすがに本当に夢のまた夢にも思わなかったことでしょう。

多少の経年劣化を除いて、作品そのものはなにひとつ変わっていませんが、時代やそれを観る人によって、石ころ呼ばわりされたり、名画と名付けられたり、教科書に載ったり、ごみと言われたり、数百億円もの価値をつけられたり、トマトスープをかけられたり、

大変ですね、アートも。

どうやらそれは観る人しだいでいくらでもその姿を変えてしまうようです。


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昨今の美術館の絵画を襲った一連の事件についてのニュースを先日見かけました。

事件の経過と現状についてのいくつかの質問をしたあとに、インタビュアーは、まるでなによりも興味深い質問であるかのように、専門家に問いかけます。


「で、汚された絵画の値段は上がっていますか?」





ニュースを見ていて、改めてふと思うのは、先述の裁判の発端となったラスキンの「公衆の面前に向かって、絵の具壺を投げつけた」という一言。

ラスキンは、なぜ「キャンバスに、絵の具壺を投げつけた」と言わず、「公衆の面前に」、つまりそれを見る人々の顔に向かって、絵の具壺を投げつけた、と書いたのでしょう。

自らをアーティストと名乗るわけでもない活動家たちの一連の行動を擁護する気はさらさらないものの、彼らもまた「公衆の面前に」トマトスープを投げつけたかったのだろうか、と、思案に暮れる冬の日でした。







「でたらめに絵の具を塗りたくっては、はい、出来上がり、と署名する」と言われた画家の絵 / 
 バルベリーニ美術館 ポツダム 2022夏撮影





* 裁判の詳細については、プルースト研究者である真屋和子さんの丁寧で精細に編み込まれた書籍から多くを学びました 。素敵な一冊でしたのでここに紹介いたします。「プルーストの美」 




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