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「はい」と「いいえ」のあいだに

「はい」といったら ウソになってしまう
「いいえ」といっても ほんとうではない
「はい」と「いいえ」のあいだに
100万の虹色の 答えがある
それが「こころ」っていうもんさ


工藤直子さんの「双子の心」という詩の一部です。
大好きな詩です。


詩人というのはすごいですね。
私が何日かかっても説明出来なさそうなことを、こんなにやさしい言葉で表現してしまう。


私はまさに日々「こころ」を扱う仕事をさせていただいているわけですが、
病院というのは、なかなか「100万の虹色の答え」を受け入れ難い場所だなと感じています。



たとえば、私たち心理職よくぶつかる壁のひとつに「診断」というものがあります。

「診断」というのは、医師が、人の状態に既存の病名ラベルをつけることです。
精神科なら、あなたはうつ病ですねとか、あなたはパニック障害でしょうとか。

正しい「診断」がつけば、その人をどう治療して良いかがわかりやすくなります。
それぞれの病気に、これまで蓄積された研究結果やデータがあるので、それらに基づいてベストなお薬を処方したり、効果があるとされる精神療法を提供したりできるわけです。

ですから「診断」は大事なのです。


でも問題は、(工藤さんの言葉をお借りすると)それこそ、こころには「100万の虹色の答えがある」ということ。

それを400個(DSMで)くらいしかない診断のカテゴリーにはめ込んでいくわけですから、それはそれは大変なことです。個人的にはちょっと無理があるなと思ったりもします。
(しかもその診断名自体が、わりと短いスパンで消えたり違うカテゴリに移ったりすることもある)
やっぱり医師の先生も「うーん?」といまいち確信が持てていなかったり、
先生によって全然違う診断がついたりします。


この“診断”というラベルづけは、患者さんにとってその人の人生を大きく変えてしまうこともあるくらい重大なものなのに
その中身は意外と不確かなものだと思うのです。

そもそも病気か病気じゃないか、正常か異常か、という、白か黒かに分けるというのは、とても難しいことです。


それこそ心は目に見えないので、そのひとが"表現"していることを丁寧に拾いながら診断を決める必要があるのですが、
自分の状態を言葉で説明するのがまず難しいという人は、たくさんいます。
お子さんは特にそうですよね。
自分に何が起こっているのか、自分が何を感じているのか。
どういう状態で、何が必要で、どうして欲しいと思っているのか。
自分でもよくわからない、言葉にできないことがたくさんあると思います。

ましてやそれを初めて会った知らない人に、適切に説明するなんて。


「今日はどうして病院に来たの?」
と、医師に面と向かって尋ねられると、言葉がうまく出てこない。身体が固まってしまう。


診察は時間が限られますから、医師としてはできる限り有用な情報を引き出したいわけです。
矢継ぎ早に質問が飛んできます。答えやすいように、クローズドクエスチョンも織り交ぜながら。

「夜は眠れてる?」「…はい」
「ご飯はいつも通り食べられる?」「…まあ」
「学校には行けてる?」「……」
「学校で何か嫌なことがあったの?」「…」
「お友達とはうまくいってる?」「…」
「気もちが落ち込んだりする?」「……」


大体のお子さんが困ったように黙り込んでしまうか、
「まあ、」「うーん」と唸って答えを濁します。

考えて考えて、「ふつう」と答える子もいます。
「わかんない」と答える子も、お母さんの影に隠れようとする子も。

無理もありません。

それは、「はい」でも「いいえ」でも、なかなか正しく答えられないことだから。
そして、それについて説明するには、長い時間と、安全な場所と、信頼関係が必要だから。

隣に座るお母さんは、「ちょっと!先生が訊いてるでしょ、ちゃんと質問に答えなさいよ」と助け舟(?)を出してくれたりしますが、

ちゃんとした誠実なお子さんこそ、本当の答えを返そうとして、じっと考え込むことが多いように思います。

「この子が学校に行けないのはハッタツショウガイだからでしょうか?」
「スマホイゾンになっているのでしょうか?」
「この子はウツビョウになっちゃったってこと?」
「この子は“病気“なんでしょうか?それともただ甘えてるだけ?」
「病気だとしたらどのくらい深刻なのでしょうか?」


親御さんもやっぱり「病気か否か」「診断名」が気になるようです。






実は心理士をやっていると、「この子の診断なんですかね?」と、医師からもよく聞かれます。「診断決めかねてるから、心理検査とって」と。正しい診断さえつけば自分の仕事は終わったんだと言わんばかりの先生もいます。

でも私たち心理士の多くは、実は「診断」をつけるよりももっと大事なことがあると考えています。
(もちろんいろんなスタンスの心理士さんがいるでしょうけれど)


その子、その人がどんなことに苦しんでいて、どうしたらもっと楽に、豊かに、幸せに生きられるか。環境とどう折り合いをつけたら、その子が持っている良さを発揮できるか、欠点がカバーできるか。周囲の大人たちがしてあげられることはなんなのか。

それが、私たち心理士が行う「アセスメント」です。

診断名には限りがありますが(先ほども触れましたが、確か一つ前のDSM-Ⅳで400弱だったかな)、アセスメントには、全く同じ結果なんて一つもありません。100万どころか無限の答えがあります。その人と全く同じ人がこの世に1人もいないのと同じように。


名前がついていた方が、ハッキリする。
教科書的な答えがあった方が、スッキリする。

それでも私たちは、他の誰でもないたった1人のその人の、100万の虹色の心を、
なるべくその色のまま知りたいなと思うわけです。



ここで私の大好きな稲葉俊朗先生の言葉(「いのちを呼びさますもの」という著書より)を引用したいのですが、

「記号は、ある特定の限定された集団の中において、共通見解を有しているもの同士が情報を正確に迅速にやり取りするにはとても便利なものだ。そこでは意味のずれが起きづらく、使われる記号は定義以上もそれ以下も示さず、意味は一義的なものと決まっているからだ。だからこそ定義を共有した専門家の中で、高度で迅速なやり取りをするのに記号は向いている

「実際、科学は生命現象を一義的に定義して専門用語を積み上げながら、曖昧さを極力排除した中で知の体系を発達させてきた。ただ、医療とは「医学」という学問(サイエンス)の要素もあるが、同時に「医術」という技術や技(アート)の要素も大きい。人間という多様性の塊を扱うため、記号を当てはめるのは難しい。生命の謎はまだ解明されていないことも多いため、記号のように一義的に意味を固定してしまうと、私たちの理解を縛ることになる


医療の分野で、定義が共有された“記号(専門用語)”を扱うのはとても便利なのだけど、
人間っていう謎多き複雑なものを扱うには、この“記号”だけで決めつけようとすると無理がある。記号だけでは理解できないものだから。ということです。


稲葉先生は続けています。

医学の世界では、どうしても科学的な知見のように専門用語や記号が重要視されるが、実際に一人ひとりを診る時には、体や心が示す多義的な意味を同時に含むメタファーやシンボルを読み解き、理解することこそが重要だと考えている。それは科学の言語だけでは学ぶことはできない。メタファーやシンボルから何か適切な意味を見出す行為は、すぐれた芸術に触れることでしか獲得できない。多義的なイメージ言語は、意識の表層部分だけではなく、深いところにある無意識にまで作用する。イメージは、簡単に日本語や英語などの既存の言葉に当てはめることができないからだ」

イメージの力。


例えば自分の気持ちや状態をうまく言葉にできないお子さんに絵を描いてもらったり、箱庭を作ってもらったり、人形遊びをしてもらったりすると、
その子の感じていること、置かれている状況、考えていることが、非言語的なイメージとして理解できることがよくあります。


言葉で訊かれるとじっと口をつぐんでしまうお子さんが、
色鉛筆を持った途端、勢いよく絵を描き始めたこともありました。

まずは描いてくれた絵や表現をそのまま丸ごと受け止めますが、そこから間接的にメッセージをやり取りすることもあるし、
(「この絵はどういう絵なのかな」「この子は今何をしてるところ?」「何を考えてるのかな?」)
そのうちご本人がポツポツと口を開いてくれることもあります。

「この子はお家に帰りたくないの。だからずっとお外で遊んでるの」
「この人はものすごく怒ってて、この人を叱ってるところ」
「この猫は甘えん坊で、もっと可愛がってほしいと思ってる」

そしてご自身のことを話してくれることも。

好きなお菓子は食べれるし、ユーチューブも見れるし、
ただ朝になるとどうしてもうまく起き上がれなくて、
なんかすごい体が重くて、でもママは熱はないから病気じゃないって言うし…
でも学校行こうと思って準備してると、お腹痛くなることもあるの…



私たちは、記号や数字で割り切れる世界を生きていません。

工藤直子さんの描いた通り、はいでもいいえでもない、100万の虹色の回答を持っています。

言葉がそれをうまく表せないとき、
イメージはそれの大きな受け皿になれるかもしれない。
そしてそれを介して、もっとわかり合えるかもしれない。

日々の経験の中で、そんなふうに感じています。





念の為ですが、もちろん今回の文章は、精神科医療における「診断」を否定しているわけではありません。それは現代医療における適切な治療のために絶対に必要な共通言語です。


ただ、そういうものが絶対的優位に使われる現場にあっても、
人のこころはそれ“だけ”では理解しきれないんだということを、常に忘れないでいたい、心に留めておきたいなと思うのです。

そういう“記号”や“共通言語”や“診断”だけでは拾いきれない、その人の心を尊重したいし、
その人にとって必要な支援やケアを、できる限りひとつずつ、丁寧に、オーダーメイドのように考えていけたらいいと思うのです。


最後に、工藤直子さんのこの詩の全文を載せておきます。
最後まで読んでくださってありがとうございます。



双子の心


「はい」といったら ウソになってしまう

「いいえ」といっても ほんとうではない

「はい」と「いいえ」のあいだに

100万の虹色の 答えがある

それが「こころ」っていうもんさ

「はい」と「いいえ」の双子の心


「おお笑い」のおくに 悲しみの泉がわき

「おお泣き」のはてに 希望のカケラが浮かぶ

「おお泣き」と「おお笑い」のあいだに

100万の虹色の 人生がある

それが「こころ」っていうもんさ

「わらい」と「なき」の双子の心

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