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人の心は両性だもの

子供のころから鉄道好き。
乗るのもいいが、時刻表やダイヤグラムを読んで想像するのが楽しい。
ジオラマも大好き。

いじめで不登校だったので学校には行かず、よく一人で上野駅に長距離列車を見に行った。
車両の屋根に積もった雪は、どこから運ばれてきたのだろうかと思いをめぐらせ、それが郷里であれば懐かしさに浸り、そうでなければ見知らぬ野や里へと想像の翼を広げた(「花子」または「アン・シャーリー」ふうに)。

小学生のときから内職で稼いだ金で大判の時刻表を毎月買っていた。
それをずっととっておいたのだが、結婚して家を出るときに実家に残して来たら、母が全部捨ててしまった。
言葉には出さなかったが、いまでも「うぐぐぐぐっ」と思っている。
結婚してからは、自分の給料も全部家計費と実家への援助に充てていたので、購読はあきらめた。

一人旅をしていた15歳のときから、すでにローカル線は次々と廃止され、各駅を乗り継いでどこまで行けるかとか、鈍行が急行を追い越す瞬間の快感が失われつつあった。
そのうち、乗り継ぎなどもネットで調べればすぐにわかる時代になって、その「容易さ・手軽さ」への嘆きと利便性を状況によって感じ分けるご都合主義となった。

「地図」も同様。
「年表」も好き。
まだ見ぬ世界を想像する手掛かりとなるもの。
本を読むことは好きだったが、「時刻表」と「地図」と「年表」さえあれば、ほかの本は読めなくてもかまわないと思っていた。
持っている教員免許は「国語」だが、本当は「社会」が欲しかった。

不登校が解消されてからも、学校で女子と話すのはとても疲れた。
アイドルやファッションや漫画やアニメの世界にどうしても心が向かない。
テレビの人気お笑い番組も嫌いだった。
でも、もういじめられるのも孤立するのもいやだったから、関心のあるふりをした。

高校生のときは、もう一人旅をしていたから、大学生や社会人の旅人と知り合う機会がたくさんあり、その多くは男性だった。
女性は、二人組やグループでの人が多かったから、なんとなく仲良くなりにくかった。
でも、「旅人」であるという大前提の前には、性別の意識なんか吹っ飛んでいたと思う。

クラスでも男子のほうがずっと話しやすいし、話題も合う。
地図帳を開いて、放課後まで教室で地理と地形と歴史について議論をしていたら、ある女子グループに体育館まで呼び出されて、当該男子との関係を問い詰められた。
その男子は人気者で、彼女らのうちの一人が「私が一番先に好きになったのに手を出すな」と言って私を責めたが、知らんがな。

彼とのやり取りを詳細に説明したら、案の定彼女らにはその楽しさが理解できなかったようで、「わけわからんこと言ってるおかしなやつには関わらないほうがいい」と思ったのか、無事に解放された。

昔は「鉄女」とか「歴女」などという言葉はなく、世間が言い始めたときもすごく違和感を持った。
なんでそこで「女」を出すの?
「女なのに」「女のくせに」ってなんなん?

受精時の染色体の組み合わせで、生物としての雌雄は決まってしまう。
でも、その時点でそれ以外の性差など発生していないと思う。
エコーで見たり、産まれてから、看護師さんとか助産師さんが生物的な性を告げると同時に、周囲が「男の子」か「女の子」かを認識する。
そして、そのように育てられる。
オスカルとかサファイアとか。(例えが古過ぎ)

映画「マイフェアレディ」で、レディはレディとして扱われることでレディになる(たとえ花売り娘であっても)というようなシーンがあるが、そういうことではないのか。(相変わらず古過ぎ)

昨日の「光る君へ」では、まひろが「男の子だったらいいのに」と言われるシーンがあったが、私もよく言われた。
特に大人になってからは、優しすぎて穏やかすぎて交渉ごとのできない兄に代わって、役所や病院や施設に噛みついた。
駆け引きや謀略?は、ちょっと得意だ。

見た目や恋愛や服や色の好みなどは、一般的な女性寄りに区分されると思うが、私の中の半分か三分の一くらいは、男性寄りと感じている。
でも、それは、別段どうってことない。
大事なのは男か女かではなくて、どんな人間かだ。
そもそもそこにこだわる必要性は、生殖機能の違いだけ。
とすれば、私のこの感覚は、生涯母親になれなかったことに一因があるのかもしれないが。

人の心は、本来みな両性だと思う。
寄り方の割合は人それぞれ。
現実生活に合わせるための気苦労は大変だと思うが、私が他者をとらえるときに生物学的な性は関知しない。
私も、そうされたいと思っている。

読んでいただきありがとうございますm(__)m