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わたしの愛チャリは、近所のリサイクル施設で2000円で手に入れた、オンボロ。 自転車に元々ついているはずのロックは、当初から無かった。 通勤に使う最寄り駅は、1日の乗降者数15000人を超える。 駐輪場はいつもいっぱいになる。「必ず施錠しましょう!」「ロックは二重に!」の看板が、駐輪場のどこにいても常に見える範囲に掲げられている。 2000円とはいえ、わたしの愛チャリ。みすみす盗まれるわけにはいかないし、盗まれると困る。 当然、使用開始日から後付けのロックをつけてい
人生、40年以上も生きていると、ようやくこれまでの自分を振返ってみる境地にもなれる。 これってきっと、なかなか若い頃にはできないことで。 今とはまるで別人のようだった若い頃。 中身も見た目も。 そんなことを思う中高年は多いのではないだろうか。 人生いろいろ経験してきて、「丸くなった」「まるで別人になった」「180度考え方が変わった」などと思っていた。 わたしは、変わった? 変わったのだろうか? あの頃、今の自分が絶対に許せないような行動を取ったり、どうしようもな
クライアントの中には、「罪悪感」から自分の想いに制限をかける方がいます。 それは圧倒的に、女性が多い。 「わたしだけ抜け駆けするみたいなこと、できない」 「わたしだけが幸せになるなんて」 「こんな贅沢をしたら、バチが当たる」 「あんなに迷惑をかけてきたわたしが、一人だけ楽をするなんて...」 「みんなが苦労しているのに、わたしだけ…」 もうね、そんな感じで罪悪感を持てる人はね、 本当に素晴らしい人ですよ。 「罪悪感」は常に、自分以外の誰かとの比較、から生まれます。 自分
最近、やっと気づいたよ。 複数の人たちからちょこちょこ言われて、ね。 どうやらわたしは、マイノリティ。 そうか、だからなんだ。 「わたしが考えること、当然の思考。みんな同じでしょ?」 って思って行動したことに、誰もついてこない。 わたしがやりたくてやってることを、 わたし一人で独り占めするのはもったいなから、 どうせならみんな、乗っかればいいじゃんって。 0ベースで何かをするより、ショートカットじゃん、って。 わたしがマジョリティならさ、 それで乗っかってくる人がわん
最近、出会う人たちに感じることがある。 この人は、わたしが「選択しなかった道」を選択し、今、目の前に現れたわたし自身ではないか、と。 パラレルワールド。 ”ある世界(時空)から分岐し、それに並行して存在する別の世界(時空)を指す。並行世界、並行宇宙、並行時空ともいう。” (出展:ウィキペディア) 「人生の分岐」は山ほどあって。 そして今でもふと思う。 あの時、別の道を選んでいたら。 出会う人と対話を重ねると、たいてい、「似ている部分」がある。まぁ、「似ている部分」以
声に出した言葉は、魂が宿る「言霊」となる、と言われる。 「音」は空気を震わす振動。喉を震わせ、己の耳から入り、自分以外の誰か、何かに届く振動。届く先に何かしらの影響を与え、現象となって現れる、と言う。 「言霊」となる前はどうだろう。心で思ったこと、が先に在るはずだ。 では音とならない「言霊」は、「霊」=「魂」。 心で思ったことは、「魂」そのものではないだろうか。 先日、娘3が、こんなことを言った。厳密には、ピアノに行く道中に、メールで送ってきた。 「ピアノに行きたくな
一人の人と向き合うとき、目の前の人はリアルな「ペルソナ」。 どこに住み、誰とどんな生活をし、どこで働き、どんな仕事をして、今何を課題と考えているか。 そして、なぜ、自身の人生を今、わたしと「共有」しているのか。 今日出会った方に、聞かれた言葉に即答できず、帰り道ずっと頭の中でこね回してた。 「何が得意ですか」。「できること」をいろいろ並べ立ててみたが、どうもしっくりこなかった。 そして、帰宅するころ、わたしが一番納得いく言葉になんとか辿り着いた。 「わくわくを見つ
また、虐待のニュースが流れた。 衝動的な犯行。 逮捕。 殺害。 職場では女性活躍に尽力し、明るく活発。 高齢者ドライバーのブレーキ痕のない事故。 通行人の列に突っ込み、死亡事故。 普段は地域のパトロールに尽力し、安全運転。 一般的に「いい人」と言われるどんな人も、明日は我が身。 加害者か、被害者か。どちらにもなり得る。 ニュースが流れた時、どちらの立場に共感をするだろうか。 それは見ている人の経験と環境に依るところが大きいのだろう。 いつ被害者になってもおかしく
キャリアコンサルティングでは、相談者が「思い込んでいること」を見つけ、本人に「それ、思い込みだよー」と気付いていただけるように支援することがあります。 それは、相談者が悩んでいたり、苦しんでいたりする要因の一つが「思い込み」にあり、その囚われから解放されることが相談者にとって利益になると判断したときです。 「思い込み」は、日々の生活のありとあらゆるところに散らばっています。「朝は起きるもの」「朝ごはんは食べるもの」「ご飯を食べた後は歯を磨くもの」「家にはテレビがあるもの」
凄惨な事件事故は度々繰り返され、テレビから流れてくる情報であれば目を覆い、耳をふさいでやり過ごせるものを、まさか自分が巻き込まれるなんて、と、驚きと恐怖と、やり場のない怒りとくやしさ、失ったものの大きさにつぶされそうになる人たちがいる。 最近耳について離れない。 「安全なはずの場所でこんなことが」。最近立て続けに起こっている。学校、公園、大人たちに守られながら歩く歩道。 そろそろ気づかなきゃいけない。 「安全なはずの場所なんてない」、ということを。 明日死ぬかもしれない
子どものころ、全力で「怒られること」を回避してた。行動指針の半分は、そうだったかも。 怒られるのが嫌で、怒られそうなことをしてしまったら、隠すことに全力を尽くした。 幼児の頃、バスで遊園地に遊びに行った。楽しく遊んだ帰り、お土産屋さんでおもちゃをたくさん見た。キラキラ、ピカピカ、カラフルなおもちゃは、とても魅力的にわたしにアピールしてきた。 帰りのバスに乗ったとき、わたしは右手におもちゃを握ってた。それに気づいたとき、怖くて仕方がなかった。バレると怒られる!と咄嗟に思った
自分のことを棚に上げて、人に注意や指摘をする人を見て、どう思いますか? 自分のことを棚に上げて、人の評価をしている人を見て、どう思いますか? 「お前が言うなよ!」 って、突っ込みたくなるとき、ありますよね。 じゃぁ。 自分のことを考えてみましょう。 自分は人に注意・指摘ができるほど、完璧ですか? 自分は人のことを評価できるほど、評価が高いと言えますか? 注意・指摘することは、本人が気づかないことに気づき、成長するために大変有効なことです。評価もしかり。誰しも自
かつて、「自己開示」がすごく苦手だった。 特に子育て初期、1日中日本語を話す相手がいなくなった辺りから、自分のことを人にうまく伝える方法が分からなくなった。「わたしは~」と、自分を主語にして話すことがほぼなくなった生活を日々送るうちに、「わたし」の中身がなくなっていったように思う。 それから17年ほどの月日が流れた。わたしを取り巻く環境は激変したが、その変化の始まりは、わたしが恐る恐るでも、自己開示し始めた辺りだと思う。当時は「自己開示」なんていう言葉も知らなかった。
この世に生まれるということ。生きているということ。 それは、身体があることに他ならない。 この身体があってこそのこの世。生を受け、この身体と共に在ることでのみ、人生が全うされる。 ならば。この身体をいかに美しく、いかに心地よく、いかに健康に、いかに健全に保つかを考えることは、生きるために全うするべきことではないか。この身体が喜ぶこと、気持ちよいと感じること、美味しいと感じることを追求することこそ、身体を維持し生きる意味ではないか。 それは生きていく上で身体が欲する「欲」、す