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「怒られる」を全力で避けてた。

子どものころ、全力で「怒られること」を回避してた。行動指針の半分は、そうだったかも。

怒られるのが嫌で、怒られそうなことをしてしまったら、隠すことに全力を尽くした。


幼児の頃、バスで遊園地に遊びに行った。楽しく遊んだ帰り、お土産屋さんでおもちゃをたくさん見た。キラキラ、ピカピカ、カラフルなおもちゃは、とても魅力的にわたしにアピールしてきた。
帰りのバスに乗ったとき、わたしは右手におもちゃを握ってた。それに気づいたとき、怖くて仕方がなかった。バレると怒られる!と咄嗟に思った。左隣に座る従妹に気付かれないよう、自分の座席の右側の隙間に、握り締めていたおもちゃをこっそり押し込んだ。おもちゃは手から離れたけど、取り返しのつかないことをしてしまった怖さは、決して心から離れることはなかった。

小学校、3年2組の頃。とても怖い女の先生がいた。ややふくよかな体つきの彼女の存在感は大きく、その上やたらと怒鳴り散らし、時には机を蹴り倒す。児童に手を挙げ、教室から出て行けと、しょっちゅう言ってた。わたしはその先生からターゲットにされることを避けるため、全身全霊をつぎ込んで「いい子」に徹した。当たり障りないように、「いい子」でいた。

中学生の頃、いつもの部活の通学路。自転車で、停車している車をぬって道路をショートカットして渡ろうとした。その瞬間、車の影から出てきたバイクとぶつかって自転車の後輪がぐしゃぐしゃになった。ぐしゃぐしゃになった自転車が親に見つかると怒られると思って、事故に合ったことを示談にし、隠した。ぐしゃぐしゃになった自転車は、家の近くの森の茂みに見つからないように隠した。あざだらけで激痛が走る身体のことなんか、どうでもよかった。

近くの空き地でキャッチボールの練習をしたことがあった。コントロールを失った球が、空き地の一角にあった空き倉庫の二階の窓ガラスを直撃した。使われていない空き倉庫。言ったら怒られる。わたしは当然のように、知らないふりをしようと思った。しかしその時、一緒にキャッチボールをしていた友人が、自分の親に報告した。その行動が理解できなかった。

高校生の時、片道1時間の自転車通学だった。今度は車とぶつかった。運転手のお姉さんはとてもやさしくて、遠慮するわたしを病院に無理やり連れて行ってくれた。自宅に保険証を取りに寄ったとき、ちょっと自分で転んだから、と親に嘘をついた。面倒なことを起こすと怒られる、自分一人ですべてを納めよう、という思いに支配されていた。しばらく左手にギプスを巻いたのは不便だったが、真実がバレなければ身体なんてどうでもよかった。


「怒られる」ことへの恐怖。大きな声で、執拗に攻められることの恐怖。鼓動が速くなり、胸が苦しくなる。出てくる涙を必死でこらえて、呼吸が苦しくなる。

いつからかなぁ。。。



どうしても忘れられないシーンがある。


父が、母を蹴落とそうとしてる。
階段下から仰ぎ見る二人の光景が脳裏に焼き付いている。
蹴落とされようとする母を、小さなわたしは両手で下から支えている。

「やめてーーー!!!」

と叫ぶ私の声は、父の怒鳴り声と母のヒステリックな叫びにかき消される。わたしの小さな小さな心臓が、何かに握りつぶされるかのような苦しさ。


毎晩のように、ふすまを一枚隣の部屋で、父と母は喧嘩していた。
互いに互いを傷つけ合い、互いの存在を否定し合う二人は、
隣の部屋で眠っているはずの娘の存在をすっかり忘れているかのようだった。
わたしは布団を頭からかぶり、小さく小さく、自分の存在を消すかのように体を縮こまらせ、両手で耳をふさいだ。それでも布団の隙間から、指の隙間から、望まない二人の声が漏れてきて、わたしの小さな心臓に鋭い針をブチブチと刺した。
怒鳴り合いの修羅場のほんの数メートル先、わたしは声をもらさず泣いてた。



自立した子どもだったと思う。
親に何かを相談した覚えはない。
悩みを打ち明けたことはない。
友人との楽しい出来事を報告した覚えはない。
学校のこと、先生のこと、話した覚えはない。
自分でご飯もお弁当も作ったし、洗濯も掃除もした。
自営業で忙しかった母が、自分のせいでそれ以上忙しくなることが嫌だった。
おかげで勝手にいろんなことができるようになっていった。
進路も相談なく自分で決めた。
家を出るために、県外の学校に進学した。
進学の目的は家を出ることだったから、どこでもよかった。
家を去る時、何とも思わなかった。
一人暮らしを始めても、ホームシックにもならなかった。


甘え方を知らなかった。
愛され方を知らなかった。
愛し方を知らなかった。


自分の感情の、感じ方を忘れていたように、思う。


大学生の頃、自分の身体を守るという意識が全くなかった。制してくれる友人がいなければ、援助交際も平気でしたと思う。自分の身体がどう扱われようと、たいして問題ではなかった。警察に行くなんていう発想は、なかった。


今考えたら、よく生き延びたなー、と、思う。


最近、実家に帰ると小学校時代の同級生たちとお酒を交わす。
当時の思い出話に花が咲く。
「3年2組の時のあの先生、暴力的でむっちゃ怖かったよねー」
同級生の一人は、まさにその先生のターゲットとなるタイプのやんちゃな子どもだった。もちろん、彼もわたしの意見に同調するものと思っていた。


しかし、予想外の反応が返ってきた。
「あの先生、むちゃくちゃいい先生だったよな!!むっちゃ感謝しとるわ!」


・・・・言葉を失った。
わたしは、あの先生が怖くて怖くて仕方なかった。
自分が怒られないようにするために全力を尽くし、他の児童が怒られるのを横目に見て、身体を強張らせていた。


わたしは先生の何を見ていたんだろう。
わたしは先生の、ほんの一部しか見ていなかった。そしてその一部分がすべてだと思いこみ、避けていた。


そして思い出した。
その暴力的だった先生が、わたしにかけた言葉。
「足が速いんだね!」


その一言を、なんで覚えているんだろう。
よく考えてみると、わたしは先生から直接怒られた記憶がない。


今。
まだまだ不器用だけど、
たくさんたくさんリハビリして、
たくさんたくさんリハビリを手伝ってくれる環境があって、
ようやく、
甘えること、
愛されること、
愛すること、
が、
できるようになってきたと思う。


わたしが知らなかった感情を教えてくれる「愛」に出会い、わたしはそれを受け入れた。受け入れるまでは、、、そうだな、20年近くかかったかも。
あーー、長かったな――(´;ω;`)



わたしの知ってるいることよりずっとずっと、
想像をはるかに超える複雑さで、
わたしの知らないことが存在し、
この世界を成り立たせてきている。
そして私が知らないことがちゃんと存在するおかげで、
今のわたしが生きていられる。
わたしと直接関わっていることだけでなく、
一見全く関係ないことでさえ、
全てがわたしに影響を及ぼしている。

すべてに感謝し、
そして、
自分の存在がまた同じように、
すべてに影響を及ぼし得ることを、
認める。


世界のすべてが、わたしの見方。
世界のすべてが、わたしのために存在している。
だから、わたしは、世界のすべてのために、この命を使う。


そしてそれは、本当にシンプルなことなんだって、
ちょっと分かった。

これまでの経験で、なんとか自分の役割に気づくことができました。与えられた役割を全力で全うするため、「わくわく」と「ドキドキ」のど真ん中を走ります。 サポートでの勇気づけ、素直に嬉しいです\(^o^)/