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「無償の愛」という幻想 ~わたしの始まり~

世の中に、「完璧」という現象は存在しない。
「例外」はいつも存在するし、例外を認めないことほど不幸なことはない。

誰が、「親はみな、我が子への無償の愛を持っている」、なんて言ったのだろう。
分からないけど。
もしかして、誰も言ってない?
けど、完全に思い込んでた。
親になれば、自然発生的に芽生えるんだと思ってた。「無償の愛」が。

その呪縛は酷く重くて、
子を産み、母となっても「無償の愛」の湧き出る気配のない自分に嫌気がさした。
経験も知識も、情報さえ無かった当時のわたしが、
理想とイメージだけで作り上げた母親像は、呆気なく崩れ落ちた。

こんなはずじゃなかった。
穏やかに、あふれる愛でわが子を抱きしめられるはずだった。
10ヶ月間もかけて、
自身の身体に芽生えた命を愛おしみ、
静かな音楽を聴きながら胎教に時間を費やした。
穏やかに、ただ穏やかに、時間を過ごした。
あまりに穏やか過ぎて、
早く生まれてきてほしい、とさえ思ったのに。
ただそこに、愛おしむべき子の生まれた姿があれば、完璧なはずだったのに。
こんなはずじゃなかった。

なんでだろう。
所有感もなく、一体感もなく。
自分の身体から出てきた、
意思のある我が子に抱いたのは、異物感。
手に余り、コントロール不能で、
両手にすっぽり収まるほど小さいくせに、
その存在感は圧倒的で、
周りのみんなはその一挙手一投足に一喜一憂する。
「周りのみんな」の1人になりすませれば、どんなに楽だったろう。
けれどもそれは許されず。
この世に生まれ出た新しい生命体のその全てが、
全ての責任が、
無知で経験なく、妙なプライドだけで作られた母親に託された。

誰も教えてくれなかった。
どうやって愛せばよいのか。
どうやったら無償の愛をこの子に抱けるのか。
瞬間的に芽生える「我が子を可愛いいと感じる気持ち」さえ、
前後のコントロール不能な事態に陥ってしまう時間の長さを打ち消すだけの効力は無かった。

こんなはずじゃなかった。
おっぱいを上手に飲めない。
ミルクを飲ませても吐く。
ミルクが飲みやすいから、おっぱいを嫌がりだした。
おっぱいを嫌がって噛む。
傷ついた乳頭は触るだけでも激痛が走るのに、
それでも吸わせた。
おっぱいが出ない自分が許せなった。

こんなはずじゃなかった。
穏やかに眠りにつく子どもを、
添い寝でトントンと、おなかに優しく手を乗せるはずだった。
抱っこかおんぶ、べったりくっついていないと決して眠りにつかない。
寝るときは必ず泣き叫ぶ。
起きるときも必ず泣き叫ぶ。
眠たい時も。眠れない時も。
さっさと寝ればいいのに。
なんでこんなに寝てくれないの?
いつの間にか、手に力が入っていった。

産院でもらった育児ノートは悪魔だった。
 (後日、育児ノートの評価についてのお話はこちら
24時間のタイムスケジュールに、
ミルク、おっぱい、おむつ替え、睡眠の時間などを書き込む。
細かく記録をつけるのは、好きな方だった。
ノートに成長の記録をつけながら、にこにこと、育児を楽しめるはずだった。
決まった時間に決まった量のミルクを飲んで、
飲んだミルクを吐きもせず、決まった時間にウンチをして、
決まった時間に眠ってくれさえすれば。
ノートに美しく記録をつけることを決して許さないわが子に…
生まれて間もなく、ただ懸命に、全力で生きているわが子を…
悪魔だと思った。
そして、私が悪魔だった。

子どもが動けるようになったら、
金魚の糞みたいにくっついてきた。
わたしの着替えも、食事も、顔を洗ったり歯を磨いたり、全部後回し。
っていうか、まともにできない。
トイレも、お風呂も、一人にさせてもらえない。
無理に一人になっても、
扉一枚向こうでギャン泣きされる。
テレビ画面はつけっぱなしの幼児番組。
政治経済、芸能ニュース、世の中から完全にシャットアウトされ。
どこにいても、24時間、私は彼女の機嫌を取るためだけに動く。
何一つ、思い通りに進まない。

そう言えば。
家庭での幼児保育を推奨する教材にたくさん手を出したな。
あれも悪魔だった。
マニュアル通りにやってるはずなのに、
全然うまくいきやしない。
ちゃんとやってるはずなのに。
他の人はうまくやれてるはずなのに。

24時間、イライラ。
あれ、わたしって、なんだっけ?
思い描いたわたしはいったいどこにいったのだろう。
何一つ、うまくいかない。

子どもを愛せない理由は簡単に見つかるのに、
子どもを愛せる理由が、見つからなかった。

こんなはずじゃなかった。
わたしが育児ごときでこんなことになるなんて。
いいお母さんでいなきゃ。
いいお母さんの顔を見せなきゃ。

そして、私は分裂していった。

子どもと二人でいるとき、と、
そうでないとき、が、
別人になっていった。


向き合うには、とても苦しい記憶。
けど、17年経って、あの時の自分を抱きしめたい気持ちでいっぱいになる。

よく頑張ってるね。
大丈夫だよ。
あなたは立派にお母さんしているよ。
あなたが子どもに抱くすべての感情は、
何一つ間違っていないよ。

あたなを愛してる。
大丈夫。

わたしは、痛々しいほどにがんばっていた。
今なら、分かるんだけど。
精いっぱい、子育てと向き合ってた。
向き合い過ぎてた。


誰か、あの時のわたしを見つけて。
あの時のわたしを、抱きしめて。
あの時のわたしに、寄り添って。。。

今、わたしがあの時のわたしと話をする機会があったなら。
気づけただろうか?
もしかしたら、気づけないかもしれない。
だって、いいお母さんを演じてたもの。
決して、周りに分からないように。
演じ切っていたもの。

そして何より恐れていた。
「虐待してる」って、言われることを。

完ぺきなわたし、優等生なわたし、なんでもうまくやりこなせるわたしが、
そんなことするはずないじゃない。


そう、そんなことするはずじゃないわたしでいたかったんだ。

コントロール不能なのは、
わたしの方だった。


それでも、
当時のわたしが、今のわたしを作ってる。
あのときの苦しかった経験が、今のわたしに役割を与えてくれた。

渦中にいるあなたは、
海の中で息ができず、
水面に向かって浮き上がりたくてもがいている。
生きるか死ぬか、
そんなはざまに居るように感じるときも、
生きてさえいれば。
向き合う相手が生きてさえいれば。

生きてください。
人生は必ず、好転します。


その後、人生が好転したと思えるようになったわたしに起こった出来事を、少しずつ、綴っていきたいと思います。

これまでの経験で、なんとか自分の役割に気づくことができました。与えられた役割を全力で全うするため、「わくわく」と「ドキドキ」のど真ん中を走ります。 サポートでの勇気づけ、素直に嬉しいです\(^o^)/