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贋作小説

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5分で読める贋作小説
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記事一覧

贋作・コーヒーが冷めないうちに

この喫茶室には、二度訪れたことがあった。はじめは、引っ越し当日だった。業者がてきとうに荷物を運び込んでくれるというので、時間つぶしにフラフラ歩き回った先に、ここに訪れた。暑い日だったので、アイスコーヒーを頼んだ。店内のBGMまでは覚えていないが、店員さんがかわいらしかったことは覚えている。

その人が店長だと知ったのは、二度目に訪れた時のことだ。その時は恋人と訪れて、コーヒーと一緒にサンドイッチも

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贋作・人間失格

 私の右手には契約書が、そして左手には何もなかった。そして、汚れた尻があった。選択肢をふたつに絞るまでに、時間はそうかからなかった。しかし、である。腕時計を覗く。アポイントまでの時間は、あと五分。すぐにでもこの閉鎖空間から脱出し、身だしなみを整えて得意先を訪ねなければならない。額に滲み出た汗は粒となり、やがて頬を伝っていった。



 思えば、ここに来るまでの道のりは、決して平坦なものではなかっ

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贋作・こゝろ

 初夏。記録的な豪雨が大阪を襲った。営業所に帰る道、傘を差しているというのに背広はずぶ濡れになった。腕時計を覗くと、もう時間は十九時を回っていた。今日は何もできなかった。この間のボーナスで買い換えた革靴は、見るも無惨な姿だ。せめて合成皮のものを選んで良かった、と不幸中の幸いを喜んだ。この雨は、もう一週間も続いている。

 街路樹のそばには蝉の抜け殻がたくさん落ちていて、豪雨に晒されている姿は醜いも

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贋作・夜は短し歩けよ乙女

「良くないことだと思ってるけれど」と、彼はいつもの前置きをしてから、煙草に火をつける。ゆっくりと、まるで悪びれたそぶりも見せずに煙を吐き出して、満足そうに言葉を続ける。

「歩き煙草はやめられませんな」

にやにやしちゃって、いい大人が恥ずかしくないのかな。まあいいか、別に今日にはじまったことではないし、彼はそういう男だ。コンビニで買った発泡酒のフタを開ける。プシッ、てね。相も変わらず、景気のいい

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贋作・風の歌を聴け

「ほんと、世の中ってタイミングだね」

グラスに残った氷をマドラーでかき回しながら、彼女は悟ったような口をきく。カランカラ、カランカラと、軽妙な音をたてながら氷は少しずつ溶けていく。彼女は呆れたような声で「ごめんね」と言った。何が、と聞き返したかったが、面倒になった。今日は少し、飲みすぎた。



彼女と僕はサークルの先輩後輩関係にあたる。実際のところ、それ以上でも以下でもなかった。でも、まわり

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贋作・美しい星

気配のしない朝が好きだと気付いたのは、小学5年生のころだ。旅行に出かける朝、時間は4時ごろだったと思う。まだあたりは薄暗く、人も、車も、ハトやスズメでさえ、姿を見せなかった。季節は夏だというのに、深呼吸すると肺が冷たくなるほどに、ツンと冷えた世界。気配もしない朝、きっと眠いはずなのに、緊張感が張り詰めて、目が冴えた。

あれから10年以上経つ。大人になったいまも、たまにこの時間に起きている。9月も

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