医療の無力と結紮する手【ブラックペアン】《140字の感想文 + 28(今回は字数超過で総まとめ)》
日曜劇場「ブラックペアン」
もちろんネタバレです。
実際はほとんど最終回について語っているに等しいのですが、最終回自体が全体のまとめもまとめ、総まとめな内容だったので、これが一番自然にまとまるようです。
「ブラックペアン」全10話、まとめてめっちゃシンプルに言ってしまうと、
あれだけのエピソードを費やして、けっきょく結論は「医療は命に対して無力である」ということだった。
……という、衝撃。
最終回、飯沼の出血に対処しながらの佐伯の感動的な長台詞のなかで、まさか医療は何もできない、と佐伯の口から語られるとは。
・◇・◇・◇・
この「ブラックペアン」、心臓という人間の生命活動の根源を左右する臓器をあつかうドラマでした。
そして、その力強くも脆い臓器に対するさまざまな術式が次から次へと登場したドラマでもありました。
心臓を止めず、拍動させたまま人の手で手術をおこなう超絶技巧「佐伯式」。
心臓を止めない手術をより簡易に、誰でもできることを目的に開発された器具「スナイプ」。
より細かく人間の手にちかい作業を可能にするロボットアーム「ダーウィン」。
そして、「ダーウィン」を国産化しようと試みた「カエサル」にいたっては、遠隔操作も可能です。
回がすすみ、あたらしいマシンが登場するごとに、「医療はここまできているのか」という驚きと、「医療はいったいどこまで進化することができるのだろう」という空恐ろしいような期待を感じたひとも多かったろうと思います。
そして、なんぴとも真似できない「佐伯式」という手技。それを、おそらくは独力で身につけた主人公の渡海。
架空の物語だとはいえ、人間は、手という最も汎用性の高い道具を扱う技術をどこまで磨き上げることができるのか、と身ぶるいを感じたのをおぼえています。
たしかに、機械を万能と過信して患者の命を危機にさらすことこそ、毎回のように戒められましたが、「それでも、救えない命はない」と明るく楽観的に信じることのできるストーリーでした。
・◇・◇・◇・
にもかかわらず。
ここまできたあげくに。
「佐伯式」という比類なき超絶技巧の持ち主である佐伯の口から。
医療の無力が告白される。
しかも、佐伯にならぶ天才的な手技の持ち主である渡海が、
これまでの人生で、物語のなかで、救えなかった患者はいなかったという渡海が、
新しい医療機器に対しても、だれよりも精密に、巧みに操ってきた渡海が……
その渡海でも手に負えなかった出血を止めながら、佐伯が医療のもろさ、はかなさに対する無念を語るのです。
その瞬間に、佐伯の技術は既存の医療技術では手の届かなかった空白に手を届かせるための、悔しさのあまり歯を食いしばるような思いをしながら身につけたものであったことが了解されます。
なのに、それでも。
そこまでしても。
いまだに佐伯の手の届かない空白がある。
それが、いま、佐伯が止血をしている患者、飯沼の出血です。
かつて、佐伯が担当したときに。
なすすべなく、ペアンで止血をし。
ペアンを体内に残したまま胸を縫合する、という荒々しい方法をとるしかなかった。
そのペアンは後日、渡海の父がミスをして置き忘れたものと誤解され、渡海の父が病院を追われる原因ともなったものでもありました。
そして、ペアンが実は飯沼の命を守っていることを知らぬ渡海が、「佐伯の医療ミスの証拠」として飯沼のペアンを取り外し。
ふたたびあふれてしまった飯沼の血液に対して、佐伯はいまだに有効な手立てを知らないのです。
もういちど、止血のためにペアンを用い、患者の体内に戻すことしか。
いや、あのときとはちがうはずだ。
ここにはスナイプもある。
カエサルもある。
渡海もいる。
高階も。
なのに、吹き出る飯沼の血液を、それでも佐伯は止めることができない。
ただ、「ペアン」でしか。
それは医師としてあまりにも、無力で、悔しすぎる……
まるで一生をかけた罰ゲームのようです。
しかし佐伯は、それでも一生、おのれの患者として飯沼の命を守っていく、と決意しているのです。
この「ペアン」とともに。
……やばい、いま、佐伯先生の悔しさがのりうつってきて、キーボードが見えない……なんだろな、この目から出る液体は……
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だけど。
佐伯の悔しさに対する渡海のアンサーは、
だからといって、あきらめねーから……「戻ってこい」!
・◇・◇・◇・
飯沼の止血を終えて、佐伯は倒れ、心停止に陥ります。高階らは蘇生のための措置をとりますが、佐伯はの心臓は応えず、あきらめかけます。
ですが渡海は、あきらめるなとはげまし、心臓の正常な拍動がもどらない佐伯に呼びかけるよう指示します。
そして渡海自らも、歯を食いしばるようにして佐伯に呼びかけます。
ただひとこと、「戻ってこい」と。
……もーあかん、書きながら泣きすぎてティッシュがひと箱なくなりそうでこわいです……佐伯先生、おいらの涙腺もそのペアンでとめてください……
そう、手が届かないところはある。
だったら、手を届かせる。
それだけのこと。
この蘇生のシーンが、佐伯の無念に対する答えになっているのです。
そして、忘れてはいけない。
佐伯式も、スナイプも、ダーウィンも、カエサルも。
いままで語られてきた技術の全部は、届かぬところに手を届かせるための、人間の苦闘のつみかさねの結果であることを。
佐伯が不在の理事長選の場で、「機械を用いることと人間の手の技術の調和」が佐伯からのメッセージとして語られます。
おもえば、このドラマでくり返し語られてきたのは、人の手の届かぬところを機械がおぎない、機械では届かないところを人の手がおぎなうことの必要性でした。
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しかし、人間が。
いまだ手の届いていない空白に手を届かせることをあきらめたら。
あるいはおこたったら。
そのとき患者は、命を失うのです。
だから渡海の父は、佐伯にも、息子にも、医療はただただ患者のためのものであることを言い残したのだと思います。
そして、患者の命に手を届かせるための第一歩目の、最も基本的な技術が、傷口を縫合する糸を結紮する技術です。
最終回、渡海の実家で、それこそすだれかカーテンのようになっていた無数の糸。渡海がひと一倍くり返し結紮を練習した証が、
医療とは、届かぬところに手を届かせる人間の努力からはじまる
ことを物語っています。
たとえば、第4話で、子どもの体には大きすぎるスナイプを、カテーテルを用いることで子どもにも使えるようにした渡海の工夫が、まさに、届かぬところに手を届かせたエピソードとして印象深く思い出されます。
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以上まで、最終回をベースに深読みしました。
前半の佐伯のくだりは、たぶん、原作者や脚本家の意図通り読んでいると思いますが、後半、渡海のアンサーに移ってからは、意図してこしらえたというよりは、偶然の配剤がこのような深読みを可能にした部分もあるのではないか、という気がしています。
このドラマで語られる「医療」は、医療ものドラマにつきものの「情念」とか「情熱」とか、ウェットなものとは無縁です。
ただそれは、「命を救う技術の集積」として存在します。
このドラマで語られる「医療」を想像したとき、五百蔵はあたたかみのあるものとして擬人化することができません。ただなにか、金属的な、配線が入り乱れ、あちらこちらでシグナルが明滅している、どこかSF的なメカの塊が見えます。
そのメカ的なものは、千手観音のように無数のアームを持っています。
あるアームは先端がスナイプで、あるアームはダーウィンやカエサルのアームを持っています。
それだけではなく、神のごとき技をもつ佐伯や渡海の手すらも、「医療」のしもべとして、そのアームのひとつとして、位置を占めています。
もちろん、かれら超人的な技をもつ医師を支える、看護師、猫田や藤原の手も、そこに所属しています。
この「医療」は技術なので、それ自体に正解も不正解もありません。
あるのは、「患者のために」という答えだけです。
そして万能ではありません。
手が届かぬところはあるのです。
それがすこしでも手が届くように、届く範囲をひろげようと努力してきたのが人間です。
人間は、この機械仕掛けの千手観音を、努力というエンジンで生かし続け、新しいアームを増やしながら受け継いできました。
そしてまたアームを増やして次の世代に引き渡すのです。
ただただ、この千手観音の手でも届かぬ空白をも、いつかはすべて、手の届くものとしていくために。
渡海も佐伯も、そのリレーの通過点なのです。
おこたることなく結紮の練習をくり返しながら、
医療の無力を象徴する「ペアン」を、ずっと握りしめて。
……それはただ、「患者のために」……
ブラックペアン 人物相関図
http://www.tbs.co.jp/blackpean_tbs/chart/
これまでの感想は、《140字感想文集》のマガジンにまとめています。
https://note.mu/beabamboo/m/m22b64482adf9
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いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。