私たちが暮らしているのは、豆腐のような安全の上《140字の日記+ 38》

ああよかった、この台風、それほどでもなかったわ……と、ほっとしてたら、大阪とかは暴風とか高潮とかでものすごいことになってるし、えっ!ありえん……とかと思っていたら、北海道では大地震で全道停電だし、自然災害が予想のななめのはるか上を上回っていて、受け止めきれない。メンタルがつらい。

 

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 西日本豪雨の復旧もままなっていないというのに、先日の台風21号では、第2室戸台風超えの猛烈な風が吹き、北海道では震度7の大地震。
 こんな「コラボ」……予想だにしていなかった。本当に、最悪です。

 被災された皆様には、心よりのお見舞い申し上げます。

 

・◇・◇・◇・

 

 これからの日本は、どんな国になっていかないといけないのか。

 いくら国家としての夢とか理想を追いかけたくても、たて続く自然災害がそれを許してくれそうにない時代が来てしまったようです。
 たとえ経済が繁栄しても、資金が潤沢になっても、それを災害からの立ち直りにがっぽりと注ぎ込まなければならない……なんだかこれからの日本は、石を積み直しても積み直しても鬼に突き崩されてやり直しになる、賽の河原の子どもたちのようになってしまいそうで、不安です。

 だから、災害に強くならないといけない。正確に言うと、被害を最小限に食い止められる仕組みに変えていかないといけない。

 

 これまで人間は、堤防や防波堤を築き、地下水路を整え、大規模な土木工事により自然の猛威を克服しようとしてきました。そして、この数十年、自然災害は人知により抑え込めた、と思っていた。
 しかし、とんでもない、それは勘違いでした。
 大規模な災害が鳴りを潜めていたのは、自然のほうが手加減していた、それだけのことだったのです。

 

 今回の台風では、関空の連絡橋がタンカーにより損傷して数千人が孤立し、地震ではまさかの全道停電、という、ことばは悪いですが、まるでディザスタームービーのようなドラマティックなアクシデントのコンボが本当に起こってしまいました。

 たしかに、台風も地震もひどいものでした。だけどこれは、あきらかに人災です。

 関空の運営者は、唯一の連絡ルートである橋が不通になることを想定した脱出計画をしっかりと立てていたのか?
 発電所の電力供給が停止した場合、影響を最小限にとどめるような発電計画や送電網は構築されていたのか?

 自然というものはときに恐るべき破壊力をもたらせる、ということを忘れて構築された人間のシステムは、自然災害そのものより始末が悪い、それだけでなく、被害を拡大する、というのが今回の手痛い教訓だったと思います。
 いや、フクシマでそれはすでに経験済みのはずでしたが、まだまだわかっていなかった、というのが実感です。

 

 否が応でも、自然災害による破壊と復旧、といういたちごっこを組み込んだ社会に、日本は変わっていかないといけない。

 今すぐにです。
 だって、西日本豪雨で今年の災難は全部終わったような気になっていたのに、そうではなかった。今年の残るあと4ヶ月だって、さらに何が起こるか……。

 結局、私たちの日々の生活の安全は、豆腐の上に乗ったようなものである、ということが明らかになってしまいました。平成最後の夏のたて続く自然災害は、豆腐自体を固くする、ということにも限界がある、ということをはっきりと教えてくれました。
 だとしたら、一刻も早く、豆腐の上でもうまくやっていけるシステムに変えていかないといけない。

 

・◇・◇・◇・

 

 ひとつの方向性は、

 大規模より小規模、集中より分散、集約より多様、

 だと思います。

 田舎人として率直に思うのですが、先年の熊本も、今回の北海道も、田舎で起こった直下型地震だったから、直接に地震により失われた人命のケタ数は小さかった。
 自分の地元も、たとえ未曾有の大地震がおきても、人的被害の絶対数はまちがいなく小さくなります。だって、そもそも人がいないのですから。

 だけど、関東直下で大地震が起こったら?……これは想像するだに怖い。
 人口が集中し密集していること自体が、被害を拡大する要因になるのです。そして大きすぎる被害は、必要な支援を増大させ、その規模自体が支援を困難にします。

 ふだんならば大規模に繁栄している東京をうらやましく感じたりもします。が、いざ、非常事態に陥ると、その規模が重たい桎梏となるでしょう。
 映画「シン・ゴジラ」では、たしか「全都民の避難」なんてやってましたが、実行するとなると不可能なのは間違いありません。

 大は小を兼ねない。大男の知恵は、そもそも総身に回りかねるもの。
 だから、ぶどうの房のように、ひと粒が傷んでしまっても他の粒は健全さを保てる、そうやって被害を小さく抑え込む仕組みに変わっていくことが必要だと思います。

 

 もうひとつは、

 人的余裕のストックと支援活動の手法の衆知化、

 だと思います。

 これがぶどうなら、傷んだ粒を捨てて、残りの粒を美味しくいただけばいいだけの話ですが、社会はそうはいかない。被害を最小限にとどめるのも、被災地を支えられる地域をすこしでも多く確保し、支援することが社会全体の疲弊を招かないようにするためです。
 しかし、社会自体が日ごろからカツカツで回っていたのでは、支援を出すこともできない。
 だから、日常的な余裕、とくに人的な余裕が必要なのです。

 

 ていうかですね……育休明けの復帰が嫌がられるのも、障害者雇用が虚偽申告されてしまうのも、教師がブラックな職業になってしまっているのも、介護が離職を招くのも、結局は「人手が足りない」、正確に言うと、「ニーズに対して十分な人員配置をしようとしない」ことにあるのです。
 (だけど、余裕のある配置ができないのは、とにかくコストカットして、商品やサービスを安く買い求めようとする日本人のケチさ加減のせいでもあります。)

 そうではなく、人手を増やし、そのせいで多少所得が減っても、時間と心のゆとりが幸福をもたらしてくれるような社会にしておく。
 (そのためには、安く買い叩くことによりひっきりなしに浪費するのではなく、「ここぞというところにお金を使って、良いものを手元に残して長く使う消費スタイルでも成立する経済」に変わる必要があります。)

 そして、災害時にボランティアを派遣する人的な余裕と心の余裕を社会全体にストックしておく。そのストックが災害支援に回るように誘導するのは、行政の役割です。

 

 正直なことを言うと、阪神大震災のときのボランティアは、ひたすらに善意の発露から始まり、それに終わったと思います。だって、当時は、自分の住んでいるところも大災害に見舞われるかもしれない、なんて想像すらしていませんでした。冷たいようですが、震災はどことなく、他人事でした。
 だけどいまは違う。大地震も大水害も、いつ自分の足元で起こるかわからない。それが全日本でひしひしと自覚される情勢になってきました。

 そうです、ボランティアを送り出すことの意味が、「まったくの善意」から、「災害の支援慣れした人材の育成と確保」に変わってきているのです。

 地元が万一のことになったとき、この人たちが大きな力を発揮することは、予想にかたくありません。
 また、被災地のニーズをリアルに知る人が増えることにより、災害時にはいかなる支援が必要なのか、ということについて、実効的な知恵が社会的に蓄積されてい速度が速まるのではないでしょうか。
 すくなくとも、「被災地に折り鶴を送る是非について」「募金は偽善か」というレベルの議論は卒業できると思います。

 

 最後に、

 伝統的な知恵の復活と危険の回避、

 が必要だと思います。

 そもそも、危険個所は地名や伝承として継承されていました。それを無視して宅地開発を進めてきたのは現代人である私たちです。そして、遊水池や軒下の船、といった災害軽減の知恵も捨ててきました。
 ですがこの間、危険であると伝承されてきた地域はやはり危険であった、ということが、災害による被害という形で実証されてきました。

 危険な地域には住まない、住居として提供しない。
 今まで人が住んでいなかったところでの宅地の開発はもうしない。
 社会全体でそう決意することが必要になってきたようです。

 そして、軒下に避難用の船を構えたり、水害にそなえて食料備蓄をしたり、という昔の知恵を、現代的に蘇らせないといけない。
 住宅地が近い田舎では、田畑の宅地への転用がどんどんと進行していると思います。ですが、遊水地とするためにあえて稲作や畑作を奨励する、ということも考えないといけないのかもしれません。

 さらに言うなら、原発のように、一度の事故が致命的な災害をもたらす施設は、やはりそもそも設けないほうがよいと思われます。

 

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 以上、五百蔵の考えを述べてみました。
 あくまで市井のおばさんの考え、変なところはあるとは思いますが、そこは笑って受け流してください。

 だけど、日本は災害に強い国に変わらないといけない。
 そしてその「強さ」の中身は、いかに自然が人間生活を破壊しても、すみやに、しなやかに立ち上がるための知恵を蓄積すること、だと思います。

 自然の脅威を前提に、上手に付き合っていく知恵、それが豆腐のような安全の上に暮らす日本人に必要なことだと思います。

 

 

 

 こちら↓は、西日本豪雨に際しての記事のまとめです。

いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。